小説

『柿を食う時』室市雅則(『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』)

 俯いたまま、薬指の指輪を撫でた。
 四度目の鐘。
「よいしょ」
 男はゆっくりと立ち上がると大きく伸びをした。
 あくびが出る。
「あーあ」
 そう言った後、男は一人で笑ってしまった。
「あーあ。か」
 歩き出した。
 鐘楼に背を向け、砂利道を歩き出した。

 柿を齧った。
 タイミングを見計らって。
 鐘が鳴る。
 想像していたよりも甲高い。
 柿を咀嚼する。
 超甘い。
 本当だった。
 子供の頃に、ここで柿を食べたことを聞いていた。
 全く記憶にはなかったが、余程、思い出深かったのか、亡くなった父がここで柿を食い、鐘の音を聞いたことを繰り返し言っていた。
 二度目の鐘。
 鐘を撞くのは、自分と同じくらいの年齢のお坊さんだ。
 彼はもちろん、あの俳句のことは知っているだろうから、誇らしく思っているかもしれない。
 それに引き換えと思う。
 何も行なっていないし、何も持っていない。
 再び柿を齧った。
 やはり甘い。
 ここが自分の分岐点であったと言っていた父は、この甘さと音に何を思ったのだろう。
 父と同じような境遇、環境に立ち、さて、自分が思うことはと逡巡する。
 三度目の鐘が鳴った。
 あのお坊さんには、傍にいてくれる人はいるのだろうか。
 思ったことや、感じたことを口にして、誰かに聞いてもらいたくなった。
 『柿、超甘いね」と言ったら『柿、超甘いね』とたわいも無い会話をしたくなった。そして、その相手と、束の間でなく、可能な限り、色々と共有できれば楽しいだろうなと思った。
 柿を食べた。
 お坊さんが四回目の鐘を撞いた。
 柿を咀嚼する音と鐘の音が頭の中で響く。
 口の動きを止めると鐘の音も消えた。
 男は柿を飲み込んで、勢いよく立ち上がった。
 砂利を踏みしめ、力強く歩き出した。

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