小説

『マルガレータ』次祥子(『白雪姫』)

 ここはマルガレータが自室に行くために必ず通らなければならない部屋で、幾度となく点検したはず。いかにして隠れていたのか、侮れない敵の力を目の当たりにし、マルガレータは強い緊張感と共により一層の警戒心を募らせた。
 その日を境に鏡はマルガレータが通る度に姿を現し、聞いてもいないのに「お后さま、世界中であなたが一番美しい」と呟くようになった。呟いているのは鏡ではなく、鏡の中に映る一粒のツノハシバミの実である。鏡は目の前の対象物を映し出すことはない。
 この鏡の主であるツノハシバミの実は口も目も鼻もないくせに、実に表情豊かに小憎らしい物言いをし、飛んだり跳ねたり、大きくなったり小さくなったり鏡の中で自由自在に変化(へんげ)し変幻(へんげん)した。
 いつもは無視して通り過ぎる鏡の前だが、その日のマルガレータは珍しく立ち止まり、聞き飽きた呟きに耳を傾けた。そして、おもむろに鏡を覗き込み「私を映すこともできないくせに、どこが世界中で一番美しいというの。目も無いくせに、何が見えるというの」とたっぷりの嫌味を浴びせてみた。
 その瞬間、鏡の主の叫びと共に鏡に映し出されたものは、ぐるぐる巻きに縛られ、塔のてっぺんに吊り下げられた白雪姫である。それを見た瞬間、余りのことにマルガレータは卒倒してしまった。
 気が付けば誰に運ばれたのやら、自分のベッドに横たわっていた。その傍らには、うつぶせ寝の子豚のような白雪姫がすやすやと眠っている。怪我一つせず姫が無事であったことに泣きたいほど安堵した。
 亡き后の手紙には、鏡に映し出されるものに騙されてはならぬと書かれてあったのだが、とっさのことに気が動転してしまった。
 翌朝、塔のてっぺんを見上げると、引っかかったぼろ切れがマルガレータを嘲笑うかのように風にはためいていた。鏡の主が「アッ、白雪姫!」と叫んだだけであるのに、ぼろ切れが白雪姫に見え、いとも簡単に騙された自分が実に情けなかった。
マルガレータにはもう一つ気掛かりなことがあった。手紙を持ってきた侍女のことである。城の者に聞いてもその所在がはっきりせず、結局、何も分らぬままとなった。
 鏡は石壁に現れることもあるが、現れないこともある。時にはどこかの風景が映し出され一枚の絵画のようにも見えた。城の者はそこを通る度に、確か鏡などなかったような、いや有ったような、確か鏡ではなく絵であったようなと、不確かな思いでそこを通過するのであった。それらのことは城の怪しげな噂話となって立ちのぼったが、ツノハシバミの実を見たという者は無く、又、そのたぐいの噂も全く立つことは無かった。それはマルガレータと白雪姫にしか見えない物なのかもしれない。
 白雪姫も成長と共に美しくなって行ったが、鏡の主は相変わらずマルガレータに「お后さま、世界中であなたが一番美しい」と呟いた。彼女もそう言われて悪い気はしないものの、本気で耳を傾けることはなかった。そんな彼女に苛立つのか、鏡の主は時おり隣国の后や姫を此見よがしに誉めてみたりする。無論、マルガレータは無視して通り過ぎる。すると、次の日には又「お后さま、世界中であなたが一番美しい」と弱々しく呟くのだった。

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