小説

『悪夢的存在』和織(『冗談に殺す』夢野久作)

「顔についてるぞ」
 自分で右の頬を指差し、俺は女に教えてやった。すると女はコンパクトを開き、その中の鏡を見て、頬についていた血を、化粧をするような手つきで拭き取った。それから鏡越しに、後ろに立っている俺を見る。
「大きい鏡を持って来ればよかった。洗面台にしか鏡がないのって、こういうとき不便ね」
 女は細長い指を畳んでから、そこからインクが滲み出ているような赤い唇の両端を微かに上げる。
「ねぇ、この中の子は、私よりもっと大胆なのよ」
「は?」
 コンパクトが、少し高く遠く持ち上げられる。顔の映る範囲は広がったが、鏡の中にいるのは相変わらず俺と女だけだ。けれど、女はもう一度開いた指で、鏡に映ったの自分の顔を撫でながらこう言った。
「この子はね、私よりもっと激しい心を持ってて、だけど同じくらいクールで、ずっと刺激的で魅力的なの。自分でも羨ましいくらい」
「それは、あんただろ。あんたが映ってるだけだ」
「そうよ。そうだけどね、違うの。信じなくてもいいけど、この子、私よりももっとすごいことをするのよ。ときどきね、お話できるの。そうするとわかるのよ。ゾクゾクするの」
 女はうっとりとした表情で、自分と見つめ合っている。鏡に映った自分を羨ましがっているようにしか見えないが、女を理解することはとっくに諦めているので、もう何も言わないことにした。要するに、こいつは完全にイカれているのだ。こんなにイカれた奴が今までのうのうと生きてこられたのは、偏にその美しさ故だろう。恐ろしいことに、この一流モデルの美しさは、何がどうあっても陰ることはなかった。既に散々嫌気がさしているはずなのに、その認識は一向に変わらないのだ。吐き気がしたすぐ後でも、また美しいと思わされる。その繰り返しだ。
 一ヶ月前に失踪したこのモデルに関するニュースは、連日報道されている。若者に絶大な人気を誇る彼女を心配する声は多く寄せられ、誘拐されたのではとの噂も出ていて、必死の捜索活動が行われているらしい。その当事者と、俺はこうして密会を重ねている訳だが、別に俺が女を誘拐したなんて訳じゃない。女は気まぐれで自ら行方を眩ましたのだ。そして三週間ほど前に、突然男装で俺を訪ねて来て、ここへ招待した。この、古くて小さくて、嵐が来たら雨漏りしそうな、薄暗い一軒家に。
「あんたみたいな女が、よくこんな所で暮らせてるもんだ」
 俺は言った。
「結構快適よ。それに、何よりあの裏庭の古井戸がいいわ。とっても深くて。あれを見た瞬間、ここに決めようって思ったの」
「ああ、そう…」
 女はこちらを振り向いて、全身から視線を放つように俺を見た。その体は、丸みから描かれて、後はその丸みを活かすために付属されたようなデザインをしている。小さな顔の中では、艶を帯びた黒目がちな瞳が、常に全ての性を挑発している。
「化け物を見るような目をしてるわね」

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