小説

『no little red food』日吉仔郎(『赤ずきん(little red hood)』)

 正座でしびれた足を崩すと、漆塗りのお重が運ばれてきた。割烹着姿のおばさんが鰻重とお吸い物とお漬物をわたしとお父さんの前に置いてくれる。
 これが四千三百円。
 今日は年に数回あるお父さんと出かける日で、上野まで鰻を食べに来た。二年前、わたしが小四の頃にお父さんとお母さんは離婚して、それ以来、わたしはお母さんと二人で暮らしている。毎日仕事に通うお母さんの代わりにいつも夕飯の買い出しをするから、いまではすっかり鰻重の値段がありえないと実感できるようになってしまった。
 ひとり四千円って、お母さんとわたしの夕食何回分なのか。
 わたしはなかなかお重を開けられずにいるのに、お父さんは平然と開けてしまう。うっすらと湯気が上がる。「うん、うまそう」自分の鰻よりお父さんの鰻を先に見てしまうのが嫌でわたしもお重を開ける。
 甘い香りが立ち昇って、ふっくらとした鰻の身が現れた。スーパーで見かける鰻の蒲焼より、ずっと上品な黄金色をしている。黒いお重の内側は赤鉛筆を溶かしたような朱色で、鰻の身の下にちらりと見える白米もなんだか輝いて見える。
 ぱきん。
 お父さんが割り箸を割った。「いただきます」わたしも後に続いた。鰻の身に箸を入れると、魚とは思えないほど柔らかい。おそるおそる口に運ぶ。
 タレは思ったよりも薄めで、醤油の香りがほのかに広がった。脂の乗った鰻の身は、粒の立った白米に絡んで、瞬く間に溶けて消えていく。
「おいしい……」
「うん、うまいな」
 こんなにおいしいのに、四千円もするのに、お父さんは軽い調子で答えて、ぱくりぱくりとどんどん食べた。四分の一ほど食べ進めたところで、一旦箸を置き、机に置いてある瓢箪型の容器を手に取った。
「尚子も山椒かける?」
「山椒?」七味唐辛子かと思っていたので、わたしは面喰う。山椒、山椒ってなんだっけ。
「まあ食べてみたらわかるよ。尚子、わさびとか、辛いの平気になってたよな?」
「うん」今年度、小六になってから、わたしは急激に、わさびも食べられるようになったし、生姜だって七味唐辛子だって食べられるようになった。
 すこしだけ山椒をかけてもらったところを口に入れる。ぴりりとした刺激がまろやかな味に刺さり、胡椒とも唐辛子とも違う、土っぽい香りが広がった。風味が鰻の脂を受け止めるのか、一口目より口当たりはさっぱりとする。
「もうちょっとかけてみようかな」今度は自分で、山椒の容器を手に取った。
「あ、かけすぎないように気を付けてな」

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