小説

『Erlkönig』希音伶美(『魔王』)

「むかし、ひとりの少年が森を歩いていたの……」
 母の話は、お伽話のように聞こえた。
 森を歩いていた少年は、誰かの誘うような声に導かれ、どんどん森の奥へ踏み入っていく。すると美しい娘たちが華やかに歌い踊っているところに行き会う。娘たちに招かれ、木の実の砂糖菓子を頬張り、ゲームをして、ワルツを踊って笑い合った。季節は秋なのに初夏のような朗らかな陽気。可笑しくもないのに皆で笑い転げる、この上もない楽しい時間。酩酊させるような濃厚な草木と太陽の匂い。
 やがて日が暮れると、夕日を背に、威厳に満ちた老人が現れる。老人は少年に問いかけた。
――ここにずっと居たいかい
 少年は優しい音楽のような娘たちの声に酔っている。
――うん
 そう答える。
 そして翌日、村の大人たちは森の中に少年を見つける。冷たく動かなくなった少年の遺体を。
 ああ、確かに僕の知っている話によく似ている。ヨハンは思った。ただしヨハンを誘ったのは娘たちよりもずっと優しく、砂糖菓子よりもずっと甘やかな青年だ。
「『エールケーニヒ』は『魔王』という意味よ。『ハンノキ』の古木に悪い精霊が宿っている。」
「かあさん、でも」
 あの木がそうだったのだろうか。エールが座っていた堂々とした老木。
「その子は、ずっとそこに居たいと思ったんだよね?」
「それは……魔術にかかっていたのよ」
「それでも、その子が選んだんだ」
 ヨハンにはその気持ちがわかる。エールは呼んだのではない。ヨハンには逃げ込む場所が必要だった。だから、むしろヨハンが、エールを呼んだのだ。
「お願いよ、もう独りで森へ行っては……」
「わかってるよ、母さん」
 ヨハンは答えた。しかし明日になればもう、母は再び自分に見向きもしなくなるだろうこともわかっていた。シャルロッテをあやしている父は時々こちらを顧みた。シャルロッテが眠らないので、母の助けが欲しいようだった。

 夢を見た。
 森の中を早足で歩いていた。周囲を見渡して、あの木を探しながら。
 朽ちたトウヒの木が横たわっている。こんな道を通っただろうか。キイチゴの茂みが続いているのには、何となく見覚えがあるような気がする。大きなうろのある樫の木が道を塞いでいる。ここを右に行くのだったか、左に行くのだったか。
 またカズラの弦に絡め取られたヤナギの木だ。この道はさっきも通ったような気がする。もう、来た道がどっちで、家がどっちの方向なのかもわからなくなってしまった。

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