小説

『Erlkönig』希音伶美(『魔王』)

 ヨハンには大切な場所があった。
 仔馬を勝手に連れ出して父さんに叱られた時、エリザベト婆さんの手編みのニットをシャルロッテが引き裂いてしまった時、エリスの髪に触れてわけもなく泣きたくなった時、母さんの咳が日に日にひどくなっていくのをどうすることもできない時――
 ヨハンはいつも森を駆けて、夜露に朝露に足を濡らしながら、春の花を夏の木々を掻き分けながら、そこへ泣きに行った。
 子どもが一人で踏み入ってはいけないと言われている森の中。誰も知らない小さな深い湖のほとり。一本の大きな樹がヨハンの大切な場所だった。
 ヨハンがそこを見つけたのは、六歳の時、晩秋のある宵だった。

 ヨハンは木の実を拾いながら歩いていた。拾った木の実を、手がいっぱいになったら投げ捨てた。もう涙は止まったけれど、燻ったような気分まではおさまらず、木の実の導くままに森に溶け込んで行ってしまいたい心境だった。
 まだ赤ん坊のシャルロッテにいちいち腹を立てても仕方ないことはわかる。幼い妹のことを嫌いなわけではない。しかしシャルロッテのことばかりに感けている両親には以前から腹に据えかねるものがあったし、レレはただの木屑の人形などではない。踏みつけられて足の取れたレレのために怒るのが不当なことだとはヨハンは思わなかった。
 そして秋の夕暮れにコートも手に取らず家を飛び出し、ただ夢中で森の方へ踏み出したのだ。寄る辺なく、世界から孤立したような気持だった。
 ふと、冷たい風が頬を撫で、誰かに呼ばれたような気がした。
 風の行く手を見ると、秋に色づいた木々の中に、一つだけ、青々と葉をつけた樹があった。木々の奥に潜んでいるにもかかわらず、まるで一本だけ光を浴びているかのように輝いている。
 ヨハンは引き寄せられるように木々を掻き分け、その樹に近づいた。森が小さく開け、妖しい光を孕んだ青い湖が現れる。畔に聳えるその樹は堂々として、まるで王のような威厳があった。その根は、そこで人が安らぐのを誘っているかのように、なだらかに裾を広げている。
 ぎくりとして立ち止まる。その樹の下に、人が座っているのが見えた。あの人は、さっきからあそこにいたっけ? まるで木の中から浮き出してきたみたいだ。
 立ち竦んでいる少年に、その人は気づいて顔を上げた。風を編んだようなふわりとした真っ白な長い服。その服と同じようにたなびく白銀の長い髪。彫刻の天使のような真っ白い悲しげな顔。この世のものとは思えない美しい青年だった。
 ヨハンを見とめると、彼は柔らかな笑みを浮かべた。
――ヨハン
 不思議な深い声が少年を呼んだ。
――おいで

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