小説

『狼と老婆』沢まゆ子(『赤ずきんちゃん』)

 現在は、銃は息子に取り上げられて猟師は引退。すっかりきのこの六さんになっている。
「でもさ、なんで狼と老婆だったの?」
 「だからそれは、あのときもちゃんと言ったじゃない。追い返したかったのよ。二度とわたしに会いたいなんて思わないほど嫌な目に遭わせたかったの」
 「いや、狼はわかるんだけど、なんで老婆?」
 「それは、言ったって七歳よ? 旦那が連れて来ると思ったからよ。元、だけど」
 素顔を見せるのは、嫌だった。なんとなくだけど。理由はわからないけど、と女は続けた。
 「え、夫は死んだって」
 「ああそうか、そう言ったかしらね、わたし。ごめん、あなた幾つになったんだっけ?」
 男は三十五と答える。女はぶどう酒に口をつける。
「ごめん、生きてるのよ、わたしの夫。元、だけどね」
 再びぶどう酒を流し込み、女は話し出した。
「そうねえ、気づいたら仕事に追われる毎日だったのよ」

 仕事を辞めてこの人と生活をしたい。そう思って仕事を辞めたときには遅かった。
 夫は泣いて話した。子どもができたと。
 そのとき、女は何も言えなかった。我慢したわけではない。責めることも悔やむことも、泣くことさえもできなかった。できなかったと言うよりは、思いつかなかった、のほうが近いのかもしれない。
「わたしも浮気してたのよ」
 その相手とも終わりにして、仕事も終わりにした。そうしたら、だった。
「変な風に聞こえるかもしれないけれど、わたしたち夫婦は仲良かったのよ。でも今となってみれば、仲良かったのは、お互いに大事な相手がいるのに浮気していたからそういう罪悪感から余計につながりが、相手への思いやりが生まれていたのかもしれないわね」
 これ、きれいごとね。それに、随分都合のいい解釈でしょ。女は他人事のように言った。
 夫婦の不倫なんてどこにでも転がっている話だ。でも、だけど、だから、どの接続詞が正しいのか、女にもわからなかった。
 話したくない。ましてや小僧に聞かせる話でもない。小僧でなくとも、誰かに話す気は微塵も起こらなかった。

 女は離婚後すぐに山にこもったわけではない。
 しばらくは街でそのまま生活を続けた。会社は辞めたが、辞めたからこそ入ってくる仕事もあった。それをこなしながら友達と会うのも楽しかった。
 「でも山にこもった」
 「そう、こもった。こもったというより、引っ込んだ、かしら。あら、なんで? って聞かないの」
 「それは前に聞いたこと、あったから」

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