小説

『狼と老婆』沢まゆ子(『赤ずきんちゃん』)

「たろう、たろう」
「そのたろうっていうの、やめろよ」
「あらだって、この辺じゃ猫ちゃんもいないし」
 とある片田舎。老婆の唯一の楽しみは、たろうと名付けた狼にエサをやることだ。
「今日はトマトとひよこ豆の煮込み、きのこのコンフィ。パンも上手に焼けたし。あといつもどおりチーズね。あなたが昨日捕って来たヤマメは七輪で今から焼くわ」
 エサをやる、と言うよりは一緒に食事をする。それが老婆の楽しみとなっている。
 「あー腹減った。ていうかさ、コンフィとアヒージョってどう違うわけ」
 「あらアヒージョなんてよくしゃれたもの知ってるじゃない」
 「こないだあんたが作っただろ。故郷納税で送られてきたっていうえびとかたことかいかでさ」
 「あらそうだったかしら」
 「歳とるとほんとになんでも忘れんだな。ばあさんやっぱボケ始まってんじゃね」
 「始まってるかもね」
 言いながら、老婆の声は若干弾んでいる。
 「それで? 赤ずきんはなんだって?」
 「うん、夏休みの一か月こっちに来ていいですか、だって」
 「へえ、なんでまた」
 「なんか反抗期みたい。家出したいとかなんとか」
 反抗期。あの子もそんな歳になったのか。狼は脇下のジッパーを緩めながら思う。
 「それで、OKしたの?」
 「しないわよ」
 「なんで?」
 「なんで? あなたっていつも、なんで? って言うわね」

 狼と老婆。男と女。二人の出会いは九年前に遡る。
 「あなた、こんなだだっ広い家に一人で住んで寂しくないの」
 女が初めて狼の家を訪ねたときのことだ。
 「口うるさい母親は居ないし、何をするにも自由。快適だね」
 その夏、狼は叔父の別荘、と言おうか別宅兼アトリエをひと夏借りて過ごしていた。
 「そっちは? 旅行か何か?」

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