小説

『僕の恩返し』大森孝彦(『鶴の恩返し』『浦島太郎』『わらしべ長者』)

「坊ちゃんの悪い癖です」と鶴は少しだけ声音を優しいものにして言った。「悪い事をしたら、きちんと謝れる大人になってくださいましね。あなたは、とても良い見本となるお父上に恵まれているのですから」
 言うや否や、鶴は翼をはためかせた。
 微風に目を瞑った刹那の後、鶴子さんの姿は、朧のように掻き消えていた。
 最期に残された白い羽根だけが、彼女を失ったのは、紛れもない現実であるのだと、僕を糾弾していた。

 

            ○

 父は僕を怒らなかった。
「あまりに引き留めすぎたのかもしれないね。律儀な方だから。こちらも甘え過ぎてしまった。今回の事は、良い機会だったんじゃないかな」
 涙でぐしゃぐしゃになった僕の頭を、節くれだった手が、優しく撫でてくれた。ごつごつとした手は、父が必ずしも鶴子さんにおんぶに抱っこではなかったのだと告げていた。
 取り乱すと思っていたけれど、父はすぐに鶴子さんが姿を消した事実を受け入れたようだった。
 対して僕は、鶴子さんを失ったのだという現実に、なかなか向き合う事ができなかった。暇を見つけては、彼女の姿を求めて、あちこちを駆け回っては見るのだけれど、一向に巡り合える気配はなかった。
 その日、僕は浜辺を歩いていた。
 絶え間のない波の音に耳を傾けていると、鶴子さんの部屋を思い出した。潮騒が作り出す静寂に、頬を涙が伝った。
 傷心を癒すその潮騒に、ふとノイズが混ざった。
 子ども二人の声である。興味を引かれた僕は、そちらに足を向けた。
「こいつ、顔を出して見ろよ」と、同い年くらいの少年たちが、流木で亀をつついていじめていた。「鈍間な亀め」
 まるで浦島太郎の導入である。
 色男ではないが、お金はあっても力のない僕は、そっと踵を返そうとして、ある思いつきに足を止めた。
 鶴の恩返しが現実にあるとするならば、浦島太郎の昔話も、もしかしたら現実に起こりうるのではないだろうか。
「待ちたまえ、君たち」と僕は震える脚を奮い立たせ、声を張った。「その亀を僕に譲ってはもらえないだろうか」
「なんだこいつ、藪から棒に」と少年たちは腕まくりして臨戦態勢に入った。
 僕は両手を挙げて敵意がないのだと示し、後押しのために作り笑顔を張り付けた。
「タダで譲ってくれなんて言わない。ちょうどここに、某有名メーカーの携帯ゲーム機とソフトがあるんだけれど、これと交換なんてどうだろう?」
 少年たちは顔を見合わせ、それからにっこりと笑みを交わした。

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