小説

『名前って、ふたつ以上の鐘の音』入江巽(『ラムネ氏のこと』坂口安吾『赤と黒』スタンダール)

 「あんな、きみ、自分の苗字と名前、ってすき?」
 「すき? ほんならきみ、ぼくとは分かり合えへんからそのつもりで。」
 「きみはどう。きらい? ほんま? なんでなんで? なるほど、じいさんみたいな響きでちょっと嫌やと。」
 「そんな理由か。その程度か。」
 「ぼくのな、ほんとうの戸籍上の名前、えげつないで。ええか、言うで。笑うなよ。あんな、ぼくな、ほんとは田中ジュリアンじゃなくて、田中コンドーム・ジュリアン、言います。」
 「なんでそんなケタケタ笑えるんや。デリカシーないんちゃうか。傷つく。やめて。」
 「いや、せやから本名やって。ぼくが三歳のとき、死んだおとん、アルベール・コンドームいうてフランス人なんや。おかんが日本人の田中トミコ、この二つが複合姓になって俺のほんとうの苗字は田中コンドーム、生まれマルセイユ、育ち大阪、天神橋筋六丁目在住、よろしく。」

 田中コンドーム・ジュリアンは、常に、ちょっとすねたまま、大きくなった。すねた心の中、こういう想定問答でいつも埋まっていた。いつほんとうの苗字を言える友達ができるのだろう。
 一月八日うまれのジュリアン、五か月前、二十歳になった。成人式は行かなかった。フランス人の父と日本人の母の子、と聞けば、美男子を想像するかもしれない。でもかわいそうなジュリアン、ちょっと違う。ジュリアンの顔から、食べかけのハムエッグをなんとなく人は連想した。耳、鼻、目、口、ひとつひとつ、そう悪いわけでもないのだが、なんとなくジュリアンの顔、食べかけのハムエッグであった。近所の、眼が悪いくせに眼鏡もコンタクトもきらいな村瀬のおっちゃんは、ジョン・レノンにそっくりと言ってくれたが、ジュリアンは、ビートルズのみんなに愛されてそうな感じがきらいだったので、むかついた。かぶとむしズ。翻訳してつぶやくと、さらにむかついた。

 自分が大人にいたわられる「かわいそうな子」の部類であること、ジュリアンがなんとなく気づいたのは、小学校に入学するころだった。名札というものが憎らしい。ジュリアンが入学した小学校、校名に「大阪教育大学附属」とついて、入学試験と制服があるような種類の、平野にある学校だった。おかんであるトミコは字が綺麗、教育熱心、それでそんな小学校に入れられた。三歳としうえの兄、田中コンドーム・リュカも、すでにおなじ小学校に入れられていた。兄貴は、わりと人気者だった。
 入学する直前、三月の終わり、母トミコは、長男リュカがすでに通い、次男ジュリアンがすぐに通い始めることになるこの小学校から、呼び出しを受けた。行く前からトミコは、なんの話をされるのか予想できた。三十歳にはまだなっていないような、若々しく、かわいらいしい顔つきの菊池ゆうこ先生は、兄リュカの一・二年生のときの担任でもあったので、トミコにとっては旧知のひとだった。
「お母さん、あの今度、リュカくんの弟さんが入学しますけど、その……」
と言いにくそうに話すゆうこ先生の顔つきと口調を見ると、やっぱり、と思い、保護者トミコにかなり気を使っているのがすこしかわいそうに思い、自分からそのことを話題に出し、わかってます、そうします、とサラリと言ってしまった。ゆうこ先生はホッとした顔になり、意地悪な子も中にはいますんで、そうしたほうが学年があがってからジュリアン君ものびのびできると思いますので……と歯切れ悪く言い、この短い会談は済んだ。

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