小説

『20年目の暴走』佐藤邦彦【「20」にまつわる物語】(『美女と野獣』)

 「勇者ラスンか。これより先はボブバ様の領地。疾く立ち去るが良い」
 「蝦蟇よ、邪魔だてするか!容赦せぬぞ」
 ラスンと蝦蟇が睨みあうが、互いにどこか恥ずかし気にもみえる。
 その気恥ずかしさを振り払うかの様に蝦蟇が大声をあげる。
 「容赦せぬのはこちらだ!ボブバ様を畏れぬ罪、己が命で償ってもらおう!」
 叫び声と共に蝦蟇の口から鉛色の煙が噴き出し、たちまちラスンを包む。と、ラスンの方向感覚が消失し、左右、前後、上下すら判然としなくなり、バランスを保てなくなったラスンが煙の中で倒れるも、自身が倒れた事すら気付かぬ。倒れた際に右肩と右側頭部を大地に打ち付けたが、その衝撃をラスンは何らかの打撃を受けたと誤って理解した。また、衝撃を受けた場所が自己の肉体のどの部分であるかすら、自分の肉体に対しても方向感覚が消失したラスンには分からぬ。
 「おのれ…。呀(や)っ!」
目を瞑り、蝦蟇の気配だけを頼りに気合一閃ラスンが剣を振るう。右なのか、左なのか、はたまた前なのか、後ろなのか、上か下か、自分がどこへ、肉体のどこで剣を振るったのかは分からぬ。ただ、蝦蟇の気配へと剣を振るったのである。
 「ぎゃっ!」
と叫び蝦蟇がばたりと倒れ、ラスンの方向感覚が戻る。ラスンの剣が見事蝦蟇を捉えたのである。転がる大蝦蟇を見降ろすラスン。
 「…見事だ…勇…者ラス…ン…この…俺の幻…術を破った…のは…お前で……二人…目…ボブ…バ様……以…来…ごふっ」
 血を吐き蝦蟇が力尽きる。しゃがみこんだラスンが見開いたままの蝦蟇の瞼を指先でそっと閉じ、森の奥へと歩き去る。

 ラスンの姿が見えなくなると、のろのろ蝦蟇が起き上がり、ふうっと溜息を吐きひとりごちる。
 「ラスンも衰えたものよ。20年前の奴なら……しかし、衰えたのは俺も同じか…」
 そして今しがたの闘いから装飾や誇張を排除し、原寸大にしたうえで反芻する。
 俺の口から僅かばかりの煙が漏れ、その煙が微風に乗ってラスンに届く。煙を吸ったラスンがゲホゲホ咳込み、ツルッと足を滑らせドテッと転ぶ。転んだラスンがギャーギャー喚きながら闇雲に剣を振り廻すのへ、俺がヨタヨタと歩いて行って剣にチョコンと右前肢で触り「ぎゃっ!」と叫んでからヨイショとばかりに倒れ込む。すると、腰を擦りながらラスンがヨロヨロと立ち上がり、トボトボと背中を丸め森の奥へと歩き去るラスン。
 反芻を終えた蝦蟇がふたたび、ふうっと溜息を吐きひとりごちる。
 「…若く烈しく、しなやかであった勇者ラスンが…。哀れな……しかし、本当に哀れなのはミルマ姫よ…残酷なのは時……」

 満々と水をたたえた大甕の水面にラスンの姿が映っている。蝦蟇を倒したラスンはその後も、ゴーレムにゴブリン、ベムらをなぎ倒し、最後の番獣である幻竜と対峙していた。

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