小説

『ボクと小さな本屋さん』鈴木沙弥香【「20」にまつわる物語】

 それから香菜さんはまるで思い出話しをするかのように、優しい表情で語ってくれた。
 23歳の時に出会ったここの元店主と出会って恋に落ちて、2年間付き合った時にその人が家の都合でお見合い結婚。別れる選択肢しかなくて、この本屋を貰ったこと。毎月記念日の“20日”だけは会いに来てくれていたこと。初めて紗枝ちゃんに会ったのは、10年前で、本当に愛おしく思っていたこと。それから、奥さんの我慢の限界が来て、一生会うことを禁じられたこと。その重い記憶を、香菜さんは爽やかに話すのだ。
「それでね、もう会えないってなった時、せめてここを20日にしておけばいつか会える気がして、ここの名前を変えちゃったのよ。知りたい? 昔の名前」
 いたずらっ子のような表情を、ボクは食い入るように見つめる。
「実はここね、“天空の鏡”って本屋だったの。ちょっとダサよね」
 確かにちょっとダサいかも。なんてボクも笑ってみる。 
『twentieth days』ここで香菜さんはずっと、その人を待っている。会えないとわかっていても、会ってはダメだと頭では理解していても。
 香菜さんは“ウユニ塩湖”のページに目を戻した。
「店名にしちゃうくらい好きだったのよね。その人は世界の絶景をめぐる旅をしたいってずっと言ってたし」
そうか。その写真集は香菜さんの好きな人のモノなのか。だからずっと自分の近くに置いているんだ。毎日毎日、ずっとその人を思って。
「旅できたのかな? あの子も一緒に、こんな綺麗な景色を見られたのかな?」
そっとささやく様に言って、香菜さんが目を細めた。視線の先では、紗枝ちゃんが“ぐりとぐら”を読んでいる。
「いつまでも一緒にいられたよかったのに……」
 香菜さんの目が揺らぐ。
『ぐりとぐらはいつも一緒なの。一緒にどんな問題でも解決していくの。紗枝ちゃんも私もぐりとぐらみたいになれたらいいね』
 紗枝ちゃんが今でも忘れられない言葉だと言っていた。香菜さんが紗枝ちゃんにあの絵本を渡した時の、香菜さんの心の底からの想いを振り絞った言葉。
 ボクは、遠くを見つめる香菜さんにそっと寄り添った。
 ボクが大切に思う人は、秘密を持っていて、その秘密はとても荷が重い。ボクの存在が、その荷をどれだけ軽くしてあげることができるのだろうか。
「好きだよ」ってすごく伝えたい言葉だけど、ボクの言葉は香菜さんには届かない。香菜さんだけじゃなくて、紗枝ちゃんにだって。他の人にだって。だって、ボクが何を話しても、人にはただの猫の鳴き声にしか聞こえないのだから。そんなこと最初からわかっている。それでもボクは、気持ちを込めて話し続ける。きっと気持ちでは受け取ってくれているはずだから。
「ボクはずっと、香菜さんと一緒」
 そう言うと、香菜さんは優しくボクの顔を両手で包んで、鼻先に触れる程度のキスをしてとても可愛らしく笑った。
「ハル」

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