小説

『ボクと小さな本屋さん』鈴木沙弥香【「20」にまつわる物語】

 紗枝ちゃんはどこか泣きそうな目をしていたけれど、それは悲しさからくる涙ではなく、嬉しさからくる涙なのだろうとボクは思った。
「それと、雨じゃなくても、ここに来てもいいですか?」
 ついに、それを言う決心をしたのか。それはきっと、あの日あの公園でボクにすべてを話して、自分の中で整理がついたからなのだろう。
 紗枝ちゃんは毎日、父親が家に帰って来るまで公園で暇をつぶしていると言っていた。家には母親が居るけれど、母親は紗枝ちゃんが邪魔だといって家に居づらいのだという。それは物心ついた時からそうで、だから10年前、父親が“友達”だと言って紹介した香菜さんの、今まで感じたことの無かった愛情が、嬉しかったのだという。幼かった紗枝ちゃんに、不倫なんてことは分からないのだから、本当の母親より愛情をくれる人に心を開いてしまうのは仕方がないこと。けれどそれは許されるはずなく、いつの間にか二度と香菜さんに会えなくなっていたという。だから、雨の日にたまたま飛び込んだこの本屋で、香菜さんに会った時はどうしようかと戸惑ったという。自分はきっとこの人に会っちゃいけないんだ。だけど会いたかった。そう紗枝ちゃんは言っていた。今なら、あの頃の関係がいかに複雑なものだったかもわかるから。だから紗枝ちゃんは、この本屋に来る理由に“雨”を使ったのだ。
 雨だと外では暇をつぶせないし、本も読めない。だから私はここに来ているの、と。来る理由があるの、と。
 紗枝ちゃんのことに気付いても香菜さんはきっと変わらない。自分が少しの時間でも愛した子だと分かっていても、店主と常連という関係からは逸れることはないだろう。それはきっと、香菜さんの優しさだ。そして、それは紗枝ちゃんもよくわかっている。

「いつでも来て。待ってるわ」
 香菜さんの笑顔が、いつも以上に優しく見えた。
「ありがとうございます」
 そう言った紗枝ちゃんの目には、今にも溢れそうなほど涙が溜まっている。こぼれそうになったそれを、できることならボクは拭ってあげたい。けれどボクにはできない。
 紗枝ちゃんは泣き笑いの表情を作ったまま、いつも通り絵本の本棚へと向かった。ボクは紗枝ちゃんを見送る香菜さんの横顔を見る。
「ここにね、一緒に行こうって昔話してた人がいるの」
 香菜さんはボクにボリビアの“ウユニ塩湖”のページを見せた。
「私が23歳の時に出会った人でここの元店主よ」
 ボクは思わず声を上げた。ここは、違う人のお店だったのか。知らなかった。驚きを隠せないボクをよそに、香菜さんは続ける。
「まぁでもその人はもう手の届かない所に行っちゃったけど。それで、一緒にいられない代わりに、何かを残してほしいって言ったらここをくれたの。こんな大きなものくれるんだって、ちょっとびっくりしちゃった」

 香菜さんは店内をぐるりと見渡し、何かを懐かしむ様に目を閉じた。

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