小説

『ボクと小さな本屋さん』鈴木沙弥香【「20」にまつわる物語】

 語り終えた紗枝ちゃんの目から、一粒の涙が流れる。それはとても綺麗で、ボクは目を逸らせずにじっと見つめていることしかできなかった。
 どこからか、あまり上手ではないギターの音色が聞こえて来て我に返る。ふと周りを見渡すと、公園のはじの方で、ギターケースを前にしてあぐらをかいて座っている中年男がいた。ボクは目を細める。店で見たときは、こんなおじさんがギターを弾くとか想像できない、なんて思っていたけど、実際見てみると案外様になっていて少し笑ってしまった。人が寄り付かないであろう公園で1人練習をしているおじさん。きっとこれはおじさんにとっての“秘密”なのかもしれない。ちょっと知れて良かったかも。

 
 今日は朝から雨だった。自然と胸が高鳴る。
「なんだかご機嫌ね」
 態度に出てしまっていたみたいで、ボクはどこか恥ずかしくなってしまった。香菜さんはそんなボクを見ておかしそうに笑って、受付にあった写真集“世界の絶景100選”を見はじめた。この写真集ばかり見てよく飽きないなとボクは感心すると同時に、香菜さんの横顔はいつも真剣で、時々見惚れてしまう。
 紗枝ちゃんが綺麗だといった横顔。紗枝ちゃんが自分の母親と交換して欲しいと語った横顔。完璧で、女優さんみたいに綺麗で、温かい、横顔。今日は雨だ。きっと紗枝ちゃんが来る。香菜さんは、紗枝ちゃんの秘密に気付いているのだろうか?
カランカラン。入り口の飾りが鳴る。
「こんにちは」
 紗枝ちゃんの声に、香菜さんが顔を上げる。
「こんにちは」
 香菜さん笑顔に、少し照れたように微笑んで紗枝ちゃんはボクを見た。
「こんにちは」
 ボクに向けられた無邪気な笑顔に、ボクも無邪気に、こんにちは、と返した。
 いつもお通り、紗枝ちゃんは絵本がある本棚へと向かう――途中、何かを思い出したように振り返り、再び受付へと戻って来た。そして鞄の中から一冊の絵本を取り出し香菜さんに見せる。それは、この間ボクが公園で見た絵本の表紙と同じだった。
「これも、ここに置いていってもいいですか?」
 香菜さんは一瞬驚いたように目を丸くした。 
 驚くのも無理はない。10年前、自分が不倫相手の子どもにあげた絵本を、店の常連の女の子が突然持ってきて目の前に差し出してきているのだから。10年経っても絵本は綺麗なままで、その表紙に書かれた“さえちゃん”というひらがなも綺麗に残っている。
「どうぞ」
 香菜さんは特に何も言うことなく、いつもの可愛らしい笑顔でそう答えた。

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