小説

『20年前のおやつの時間』岸辺ラクロ【「20」にまつわる物語】

 ずいぶんと長い間、僕たちはキスしていた。少なくとも僕はそう思った。見つめ合った時、彼女の鼻の下に、産毛のような毛が可愛く生えているのを見つけた。彼女の顔を掴んで見つめると、大きな瞳の中に小さな僕がいた。昨日髪を切った僕は、我ながら悪くない見た目をしていた。
「本当の名前教えて」
 彼女の源氏名は宮田綾香と言った。
「どっち、上、下?」
「下」
「あやせ。世界を彩ると書いて彩世」
「素敵な名前」そう言うと彼女は照れくさそうに「ありがと」と言った。別に君のことは褒めてない、と危うく言いかけた。僕にはデリカシーがない。本当にない。一度女の子とスキーに行って、泣きながらストックを投げつけられたことがある。原因はスキーが初めてだという彼女がスピードを出しすぎて転んだのを見て、助けにもいかず腹を抱えて笑い転げていたからだ。
「ねぇ、名前を呼んで」
 彼女が言った。
「どっち?」
「本当の名前」
 沈黙。芝生で寝ている男たちが立ち上がって去っていくのが見えた。
「ねぇ、何で黙ってるの」
 膝の上の彼女が、怒って僕のすねを叩いた。
「……照れてるんだよ」
 後ろの方から英語が聞こえた。振り返るとカメラを首から下げた金髪のカップルが歩いていた。
「……彩世」
「何?」
「好き」
 彼女は起き上がった。
「あたしも」
 そうやってまた、僕らは随分長いことキスをしていた。一息ついたところで彼女は僕の目を見て言った。
「あたし、たっくんの本当の彼女になりたい」
 沈黙。彼女は僕をじっと見ていた。耐えきれなくなって、視線を目の前の風景に移したけれど、男のカップルが去った芝生と池しかなかった。
 不思議と嬉しくなかった。いや、嬉しくない訳がなかった、はずだ。だって、好きな女の子に告白されたのだから。あまりにも予想外のことが起きると、人は無口になるらしい。好きな女の子に嫌われたことしかなかった僕の、初めての好きな女の子から告白の感想はこれだけだ。信じられない。いい意味でも悪い意味でも。
 彼女にキスをした。キスばっかりしていると思われるだろうが、その通りだ。キスばっかりしていた。
「ありがとう……彩世?」
「何?」

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