小説

『20年前のおやつの時間』岸辺ラクロ【「20」にまつわる物語】

 東京駅へ向かい、山の手線に乗り換えて有楽町駅に向かう。彼女とはこれきり会えなくなるかもしれないという不安はどこか拭い去れなかった。僕の気持ちなど察することのできないはずの彼女はしかし、泣いてる赤子を慰めるように僕の手の甲を撫でていた。
「オーストラリアに行きたいな」
「オーストラリア?」
「うん」
「でも俺はずっとシドニーにいたから、オーストラリア自体はよくわからないな」
「シドニー行きたい‼ オペラハウスみたい」
「そんなにいいもんじゃないよ」
 本当にそんなにいいものじゃない。オペラハウスなんて、見た目だけだ。
 有楽町駅について、時間を確認する彼女の携帯の画面に、細身の女の写真が見えた。見たこともない女だった。
「それ誰?」
「ん、どれ?」
「そのケータイの表紙、表紙って言わないか、その画面の子」
「あぁ、コレ三上ゆあちゃん」
「モデル?」
「んーーーセクシー女優」
「え?」
「あーーー、引いたでしょ」
「引いてないよ」
 僕はひくというより合点していた。彼女とキスをしている時に、彼女はしきりに僕の首筋に指をツゥーーと這わせていた。こんなのAVでしか見たことないな、と思っていた。
「改札出る?」
「うーーん、出ようかなぁ」
 一人でも日比谷公園に行きたかった。吉田修一の「パークライフ」を読んで以来。あの本がThe Catcher in the Ryeの次に好きだ。
「親友ちゃんに会う?」
 んーーーー、と気のない返事をすると「あ、でも合わない方がいいかも。彼女私のこと好きすぎて、彼氏できたら殺すって言ってた」
「じゃあ俺殺されちゃうじゃん」
「そうだね」と言って彼女は笑った。
 改札を出たとたん、彼女はその親友ちゃんめがけて駆けだして、彼女にハグをした。ばいばーい、といった感じに手を振って、僕も手を振り返して、正反対の方向に歩き出した。明かりがともり始めたビル群が見下ろす中、スーツを着た日人々とは逆の方向に僕は進む。日比谷公園に着いた時には、ぎりぎり本が読めない程度の暗さになってしまった。バッグに入れた「初恋温泉」を読もうと思っていたのに。
 結局20分位ぼーーっとした後で、僕は帰りの電車に乗った。日比谷線で中目黒まで行って東急東横線に乗り換えて綱島に着くまで、立教大学のボクシング部のホームページを見ていた。彼女がボクシング部のマネージャーをしているから。そのことは今日知った。僕たちは、お互いに、まだ何も知らない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11