小説

『小さな川の出口』菊武加庫【「20」にまつわる物語】

「なんでも事前に報告するようにといつも言っているでしょう……」
 常に全てを丸投げし、報告事項など放置しておきながら、一旦事が起これば何もかも部下のせいにする。そして印籠を突きつけるようにきれいごとを並べるのが彼女のやり方だ。だがそのヒステリックな声すら、眼鏡越しだと直接浴びなくてすむのだ。二重の窓のむこうで様々な雑音に同化していくような気さえする。
「眼鏡してるとね、クレームとか主任の無茶とかちょっと冷静に聞けるのよ。いい具合に距離を保てるというか――直撃されなくて助かる感じ」
 同期の真弓に話したことがある。仕事を終え、園を出てバス停まで歩く数分が、いつもガス抜きの時間だ。彼女は少し声をひそめ、花粉よけのマスクを指した。マスクの下で笑うのがわかる。
「これも便利なのよね。マスクの下で結構舌を出したりブツブツ言ったりしてるよ。うるせーとか、ばーかとか。園児と同レベルだよね」
 くりくりした茶色い目がマスクの上で半月形に笑う。
 防御しながらがんばっているのはわたしだけじゃない。

 連休が取れたので渉に会いに行くことにした。
 卒業直前、ぎりぎりで不動産の会社に就職が決まり、営業の仕事をしていたが二年で辞めた。特に耐えられないほどの理由があるようには見えなかったが、あまり驚きもしない自分に驚いた。その後派遣で食いつなぐことはできているが、正社員として仕切り直す気は今のところなさそうだ。特別目指すものや、やりたい何かがあるようにも見えない。勿論(というのも変だが)、焦っているようにも見えない。
 最初の職場が県外だったのでそれからずっと遠距離だ。派遣ならわざわざ県外に住む必要もないだろうに、引越しは面倒だと言う。おかげで正社員でもない相手と遠距離という、馬鹿馬鹿しい状況である。基本、えいっと動くことができない性質なのだろう。
 正社員のころから住んでいるワンルームは、五年もいるからか妙に落ち着いている。備えつけのベッドと小さなローテーブル、収納用の低いボックス以外に家具はなく、座してなんでも取れそうである。案外こざっぱり暮らしているのがこの人らしい。ローテーブルの上に統一感のないマグが二個置かれ、コーヒーが注がれる。嗜好品を買う余裕はあるのかと皮肉を言いたくなるのをひっこめる。
「インスタ始めてみたんだ。どんなものかやってみたけどやっぱりつまらない。もうやめようと思ってるけど、見る?」
 二人ともいわゆるSNSというものが苦手だ。いちいち食事の内容や行った場所を見せる行為は、いまだに理解できない。渉は「興味ねえし」と言ってフェイスブックをすぐにやめた。意味のない食事のメニューが大して親しくもない相手、時には見知らぬ相手から送られてくることに困惑したらしい。

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