小説

『花嫁の便り』倉田陸海【「20」にまつわる物語】

「もしもし」と僕は言った。
『あなた、馬鹿じゃないの』と電話の彼女が言った。『大事な一枚をもう使っちゃうなんて』
「でも、さっきの説明だけじゃ何も分からないよ。抽象的すぎる」
 二秒ほどの沈黙の後、彼女は長いため息を吐いた。受話器越しに彼女の吐息を感じ、反射的に背筋が張ってしまう。
「耳がくすぐったい」
『馬鹿じゃないの』
 またしても『馬鹿じゃないの』と言われてしまった。確かに、今は冗談を言っている場合ではなかった。大事な時にも冗談を口にしてしまうのは僕の悪い癖だった。今こうしている間にも、一分間は擦り減り続けている。呑気に談笑している暇はなかった。
「それで、どうすれば僕は君の言った特別に可愛い女の子に会える?」
『あなたがどこにいても、必ず会えるのだけど……。そうね、じゃあ海に行きなさい。そうしたら会えるから』
「また抽象的だな、この近くの海岸でいいの?」
『それで大丈夫。時間は今日の十六時がいい』
「分かった。後は、彼女をなにから守ればいいのか分からない」
 腕時計を見ると、通話が始まってから大分時間が経っている。残された時間は、あと十秒もなかった。受話器を握る手は汗で湿り、その不快感がさらに焦りを募らせた。電話の彼女は『そんなに焦らないで』と言った。彼女はどこかに隠れていて、公衆電話を使う僕の姿を見ているのではないだろうか。しかし、周辺を見回しても路地裏には誰一人いないし、誰かが隠れている様子もなかった。
『それはあなたが彼女に会ってから聞くのよ。大丈夫、あなたなら上手くやれるわ』
「だから、君は一体――」
 二度目の通話はそこで終わり、結局僕は電話の彼女が誰なのか分からなかった。音を発さなくなった受話器を元の位置に戻し、再びボックスから出る。もうすっかり太陽は真上に到達していた。時間を確認すると、十六時まではあと二時間ほどあった。二時間後にはこのよく分からない出来事も、多少は把握できているのだろうか。いや、もっと訳が分からなくなるかもしれない。僕は電話の彼女のように、深くため息を吐いた。

 小田原から一番近い海岸は、国道一号線沿いに位置する御幸が浜だ。夏には人が多いけれど、三月の終わりにこんな場所に来るのは散歩で通りかかる人と、とにかく人気がない場所に行きたがる恋人たちくらいだった。十六時になって海岸に着いた時も、やはり恋人らしき男女が浜辺で寄り添い、尻尾が異様に長いゴールデンレトリバーを連れて歩く白髪の入り混じった男性がいるだけだった。海に来るのは数年ぶりだった。僕はあまり泳ぎが得意ではないから海水浴には来ないし、連れてくるような女性もいない。そして散歩させる犬も飼っていない。

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