小説

『GASOLINE BOOGIE』広瀬厚氏【「20」にまつわる物語】

 女は名のある企業で堅い仕事についていた。女は洋介よりかずっと多くの月給を手にしていた。女は洋介を好いていた。女に甘え洋介はだんだん仕事を休みがちになっていった。そんな彼の胸に、蒸発した父親の影が浮かんでは消えた。父親の血を受け継ぐ自分は、駄目な人間なんだと思った。そう思うと、この先どんどん駄目になっていく気がした。だんだん彼は女のことを、ただ自分の欲求のはけ口として扱うようになっていった。それでも部屋を出ていこうとしない女に、かなりな無茶を言ったりやらせたりした。そんな自分のことを彼は自分で嫌悪した。自己嫌悪が激しくなるにつれ、女の扱いもより酷くなっていった。そしてさらに自分を嫌悪した。ただ手だけは、女に出すまいと洋介は心に決めてたいた。が、しかし………
 出会った晩以来女は、酒を軽く嗜む程度にしか飲まなかった。その日も洋介は仕事を休んで、部屋でなにをするともなくだらけていた、昼が過ぎ日が落ちて晩となった。だいたい女は毎日同じぐらいの時間に仕事から帰ってきた。しかしその日はなかなか帰らなかった。連絡もなかった。洋介から連絡することもなかった。洋介は冷蔵庫から適当なつまみを出して、それを肴に酒を飲んだ。
 女は遅くに酒に酔って帰ってきた。それもかなり酔っていた。
「洋介くんただいま。洋介くん晩ご飯食べた? 洋介くん愛してるよ」
 帰ってきたとたん女は、そう言って洋介に抱きついた。洋介はそんな女のことを鬱陶しく思い払いのけた。すると突然女は泣き出した。
「愛してるの、愛してるの、あなたを愛してるの。本当よ、本当に愛してるの。だからもう少し優しくして……」
 そう言って女は、また洋介に抱きついた。そして泣きながら「愛してるの」を何度も繰り返した。洋介は「愛してるの」の連発に虫唾が走り、鬱積していたどす黒い感情が爆発した。彼は女に激しい打擲を加えた。どうにも止まらなかった。手を出すほどに自分の心も傷ついた。それ以上に女の心とからだを傷つけた。女は彼の部屋を出ていった。洋介は、とことん自分を嫌いになった。20才を前にして酒をやめた。酒はやめたが、日ごと様々な、思い、考えに、酔いしれるようになった。

 彼は波止場の近くに車を止めた。車をおりて波止場を無言で歩いた。空を見上げると、まんべんに瞬く星が、今にも空から降ってきそうだった。ビルのような大型貨物船が不気味にその巨体を港に浮かべていた。ところどころ錆が浮かぶ鉄の船体が、月明りに照らされて、一種凄みをおびたアートとして彼の目に映った。時々どこか遠くから汽笛の音が聞こえてくる。波止場から海を見下ろすと、漆黒に落ち着き揺れる、水面へと吸い込まれそうになる。
 彼は波止場のへりに立ちどまって、どこを見ているのかよく分からない、遠い目をした。潮風が彼の頬をさすった。遠くでまた汽笛が鳴った。彼はまた夜空を見上げた、そしてまた海の水面を見下ろした。漆黒に揺れる水面へと踵が浮いた。海が彼に「おいで」と誘った。彼は誘われるがままに、いっそこのまま暗く冷たい海に、飛び込んでしまおうかと思った。なぜにか急に車の助手席足もとにある、赤いガソリン携行缶が彼の胸に浮かんだ。次に燃え滾る炎が胸に描き出された。冷たいものと熱いものに彼の心は相殺され、落ち着き、思いとどまった。洋介は浮いた踵を下ろし、そして車へと返した。

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