小説

『GASOLINE BOOGIE』広瀬厚氏【「20」にまつわる物語】

 洋介の父親は彼が中学三年のとき、突然家族のまえから姿をくらました。彼にとってずっと、普段何をしているのか、よく分からない父親だった。平日一日中家にいることもよくあった。と思えば、家に何日も帰らないこともたびたびあった。何か大きな事業に関わっているのだとか、貿易の仕事をしているのだとか、投資をしているのだとか、音楽関係の仕事をしているのだとか、他にもいろいろと言っていたが、どの話もあまり信用できるものでなかった。
 そんな彼の父親は、古いアメリカンミュージックが好きで、家でよくレコードをかけていた。黒人音楽、白人音楽、分けへだてなく聴いていた。とくにアコースティックなものを好んで聴いていた。物心ついた頃からずっと、意識せずとも洋介の耳には、父親がかけるレコードの音が鳴っていた。父親は蒸発したが、父親の聴いていた音楽の影響は彼に残った。父親が聴いていた物ほど古くはなくとも、年齢のわりに、どちらかと言えば渋好みな、今どきでない音楽を洋介は聴くようになった。

 トム・ウェイツのCD、クロージング・タイムを洋介はカーステレオに入れ流した。トム・ウェイツは、洋介の父親がたびたび聴いていたマール・ハガードの歌のことを、木と鉄で出来ていると言った。柔らかく、荒々しい、と言った。彼の声を聴くといつも列車を思い出すと言った。歌の書きかたを教わりたければマール・ハガードを聴くといい、と言った。この晩、トム・ウェイツの歌声が洋介の気分によくはまった。
 時刻は午前0時を回って30分ほど過ぎていた。土曜の夜、正確には日曜になったが… 町の中心へと続く道は、まだまだ結構な交通量がある。パトカーのサイレンが聞こえる。救急車が一般車両を止め赤信号を行く。バイクの集団が爆音をあげ赤信号に突入する。急発進する。急停車する。飛ばす。ぼっかける。パッシングする。クラクションを鳴らす。
 町中に近づくにつれ洋介の神経は、ヒリヒリとささくれ立っていった。後ろからきた軽四がクラクションを鳴らし無理矢理に彼の車を追い越した。軽四のドライバーは追い越してすぐ、急ブレーキを踏んだ。ストップランプが赤く洋介の目に飛び込み、彼も急ブレーキを踏んだ。とすぐ、軽四はスピードを上げ走り去った。
「この町の奴ら皆殺しにできるほどの奴をくれ! いや、それじゃ全然物足りない。この国、いや、全世界の奴ら皆殺しにできるほどの奴をくれ! 」
 にわか洋介は、そんな激しい思いに駆られた。助手席足もとを見た。赤いガソリン携行缶の中、ガソリン20ℓ。
「ふっ」と彼は鼻で笑い、とても小さな自分を思った。
 彼はハンドルを切り次の交差点を左に折れた。小さな自分を思い、大きな海が見たくなった。アクセルをぐっと踏みこんだ。非力な車の細いタイヤが鳴った。

「母さん、俺… やっぱ中学出たら高校いかずに働くよ」
 苦しいだろう家計を気遣い洋介が言った。母親は父親が蒸発する以前から、家の近くにある食品加工の工場で、フルタイムで働いている。家には洋介のほか三つ離れた妹がいる。妹は今度小学校を卒業し中学入学となる。なにかと金がかかる。
「馬鹿なこと言ってないで高校ぐらい行かなきゃ駄目よ」

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