小説

『にじゅうのうた』洗い熊Q【「20」にまつわる物語】

 やや黄ばんでいるピアノの鍵盤。
 彼女はそれに向かって長い黒髪を振り下ろしていた。

 振り下ろすという表現は間違っているか。

 正確には、彼女は頭を力の限りに振っている。振り乱す艶やかな黒髪。それが鍵盤に向かって下りるんだ。
 鍵盤上の指先が、滑らかに波打ち流れる。それと交互して、彼女の頭が振れる。
 力強く、そして懸命にだ。

 鍵盤に吸い付く指先。力一杯に押し込め、叩かれて響く弦の音色。
 だけど僕に響くには刹那に遅れる。指先が盤から離れる瞬間に、引かれるように心の弦を鳴らしてくれる。

 彼女は目の前。本当に直ぐ前。
 けたたましい音の中で、息づかいまで感じとれる程に目の前で。
 彼女はピアノを弾いている。
 圧倒され、感動させられ。
 唖然としたままに聴かされる、僕の為に奏でられる曲。

 でも、僕は彼女を知らない。
 今、思い知らされている。
 偶々に出会した彼女に、今は魅入られているんだ。

 

 平日の昼食時を過ぎた頃だ。お店に伺ったのは。
 何時もその時間帯を狙って。ランチ客達が引き揚げる時を。
 週末はやや、お客が少なめなのもある。この近辺では。
 喫茶店というには広めの開放されたフロアだ。ギャラリーカフェといった所か。
 店のカウンター席列、その側にアップライトピアノが設置されている。そこが舞台。休日などは様々なジャンルのライブも行われている。
 シックな雰囲気ではない。店構え、室内の造り、家具に至るまで。木目が色濃く出るノスタルジーな情緒。温かみに包まれる、この店の息づかいが好きになった。

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