小説

『桃缶』間詰ちひろ(『桃太郎』)

 そう言いながら、小さくカットした桃をフォークにさして渡してくれた。まどかがぐずぐずしていると、桃にふくまれていたシロップが、ぽたりとふとんの上にこぼれ落ちそうになる。母が慌てながら「まどか、早く食べて」と言っていた、幼い情景をぼんやりと思い出した。
 母の優しい眼差しがよみがえり、まどかの胸はきゅっと掴まれたように痛みを覚える。離れて暮らす母の優しさは、弱り切った身体にひりひりと染みる。
「お母さん、ありがと」息を吐き出すように、まどかは呟いた。

 まどかはキッチンの引き出しから缶切りを探し出し、缶詰を開けた。
 シロップのなかにたぷたぷと浮かぶ白桃の実。シロップがこぼれることを気にしながら、まどかはそおっとお椀のなかに缶詰の中身を移した。ぷかぷかとお椀のなかに浮かぶ白桃は、つやりとした光を放っていた。まどかはキッチンに無造作に置いていた菜箸で、桃をつかみ、その果肉を口に運んだ。
 シロップの甘い風味と柔らかな桃のくちあたり。腫れてじくじくとした痛みを帯びていた喉の奥に、つるりと通り過ぎていく感触が心地よかった。まどかは、ひとくち食べた瞬間に「身体が求めていたのは、これだったんだ」といわんばかりにむさぼった。缶詰のなかに浮かんでいた白桃もお椀に移し、普段なら甘ったるくて飲む気の起きないシロップも一気飲み干していた。
 缶詰を一缶まるごと食べきったせいか、まどかの満腹中枢は「オッケー」と指令を出したようだ。すこしばかり感じていた空腹感は満たされ、まどかは再びベッドに戻った。相変わらず身身体中がギシギシと痛む。けれど、つうっと喉を通り過ぎていった桃のひやりとした感覚が、まどかの意識のなかに残っていて心地よかった。

 まどかはまた、熱に浮かされながらも、まどろみはじめた。
 そのまどろみのなかから、誰かに呼びかけられているように感じた。

——どこだろう? ここは。 
 まどかはひどく蒸し暑くて、薄暗い中で寝そべっていた。なんだかとても息苦しくて、上半身を起こそうと試みる。けれど、長時間泳ぎ続けた終えたあとのように、身体はずっしりと重い。身体を持ち上げようとするだけでも一苦労だった。
 きょろきょろと、目だけを動かしてあたりを見渡してみるけれど、ただただ闇が広がり、特徴のあるものは見つけられない。触れているお尻の感触は硬く、ごつごつとした岩の上にいるようだ。光の届かない洞窟の奥にいるのだろうか。

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