小説

『インドの観覧車』緋川小夏(『赤い靴』)

 どうして、この人がわたしの名前を知っているのだろう。不思議に思っていると「実は預かっているものがあるんです。このまま少し待っていてもらっていいですか?」と言って、慌ただしく事務室の中に引っ込んでしまった。
「すみません、お待たせしました!」
 しばらくして事務の女の子が手に何かを持って戻ってきた。そして「どうぞ」と言って差し出されたのは、一通のエアメールだった。
「これは……?」
「ひと月くらい前に届きました。もし小麦さんがここを訪ねて来たら、同封されている手紙を渡して欲しいと、書いてありました」
 封筒の表には赤いインクで書かれた大きなJAPANの文字と、介護施設の住所、そして異国情緒を感じさせるデザインの切手が何枚も貼られていた。差出人の欄には亮悟の名前が記されていて、それを目にした途端に鼻の奥がつんとなった。
 わたしはかすかに震える指先で、封筒の中を確認した。そこには施設の職員に宛てた手紙と「小麦へ」と書かれた手紙、そして一枚の写真が同封されていた。
 わたしへの手紙の書き出しには「今、僕はインドにいます」とあった。
 あれから、すべてが上手く行かず、何もかもが嫌になって一人インドに渡った。こうやって生活を簡単に投げ出してしまうくらい自分も弱い人間で、誰かに説教できる立場ではない。小麦のことを責めるつもりもない。そして大きな文字で「ゴメン」と書かれてあった。
「小麦さんに手紙を出したかったけど住所がわからなかったから、って職員宛ての手紙に書いてありました。インドには本当に手ぶらで行ったみたいです。亮悟さんらしいですよね、そうゆうところ」
 わたしは事務の女の子と顔を見合わせて、少しだけ笑った。
 きっと亮悟は携帯電話を解約して、お金と必要最小限の着替えだけ持ってインドに渡ったのだろう。以前、バックパッカーをしていたときと同じように。

 追伸 もうすぐオレのいる土地に移動式遊園地が来ます。小麦も一緒に行きませんか。

 便箋の下のほうに小さく書かれた追伸を読んだら涙が溢れた。
 同封されていた写真には、日焼けして無精ひげを生やした亮悟の姿があった。髪もずいぶん伸びている。吹っ切れたような明るい表情に、眩しいインドの陽射しが重なった。そして写真の裏には亮悟がいる村の名前が書いてあった。
 そのとき、殺伐とした道の先が開けて遊園地が見えた。

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