小説

『インドの観覧車』緋川小夏(『赤い靴』)

「雅彦さん、心配して病院まできてくれたのよ。とりあえず丁重にお詫びして、汚した部屋のクリーニング代ってことで、いくらか包んでおいたから」
「うん……迷惑かけちゃってごめんね。お金も、ちゃんと返すから」
「お金はともかく、謝るなら雅彦さんに謝りなさい。あなた、どれだけ迷惑かけたと思っているの!」
 母にピシャリと言われて我に返った。曖昧だった記憶が徐々に甦る。そして自分のしでかしたことの大きさと馬鹿馬鹿しさに、改めて心底、呆れた。
 奥さんは、わたしのことを雅彦さんから聞いていたらしい。飲みかけの缶ビールと一緒に倒れていたわたしを見つけて、機転を利かせて警察には通報しなかったので大事にならずに済んだ。
 これで、わたしと雅彦さんとの信頼関係は完全に切れた。脳内遊園地も、もうどこにも存在しない。すべてわたしが自らの手で壊してしまった。
「マンションの鍵は雅彦さんに返しておいたから。とにかくもう二度と、こんなことしないでちょうだい」
「本当に、ごめんなさい……」
 明日からまたスタートラインに戻って仕切り直しだ。
 まだ頭の芯がズキズキする。抗酒剤の効果は絶大だ。とりあえず今は、お酒のことを考えることさえ嫌だった。それでも身体が落ち着けば、また飲酒欲求と闘う日々が待っているのだ。
 その日の夜、わたしは亮悟に電話をかけて、それまで隠していたことを洗いざらい話した。うん、うん、と聴いていた亮悟は、途中から無言になった。そして一方的に電話は切れた。 
 わたしは携帯電話を握りしめてロビーにある窓を見た。そこにはパジャマ姿の女が幽霊みたいな顔をして茫然と立ちすくんでいた。恥ずかしさとふがいなさで、しみじみと涙がこぼれた。
 それ以来、亮悟はわたしの前から姿を消した。

 亮悟と連絡が取れなくなってから、どのくらい経つだろう。
 携帯電話に何度かけても繋がらないし、メールも届かない。思い切ってアパートを訪ねてみたけれど、そこも既に引き払われていて一緒に過ごした部屋は空室になっていた。
 悶々としていたわたしは、思い切って亮悟が勤めている介護施設を訪ねてみた。受付で初老の男性に確認すると、亮悟は少し前に施設を退職したと聞かされた。転職先を尋ねてみたけれど、それ以上のことは何もわからなかった。
もう、お手上げだ。わたしは棄てられたのだ。当然だ、と思った。
 落胆した気持ちで帰ろうとしたとき、事務室から飛び出してきた若い女性事務員に呼び止められた。
「あの、失礼ですけれども、もしかして小麦さん、ですか?」
「はい、そうですけど……」

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