小説

『インドの観覧車』緋川小夏(『赤い靴』)

「雅彦さん、再婚されたみたいよ」
 わたしは驚いて、洗っていた湯呑茶碗を落としそうになった。
「再婚?」
「今日、小麦が出かけている間に電話があったの。お相手がどんな人かは、あえて訊かなかったけど……残念だけど仕方がないわよね」
 顔から血の気が引いてゆくのが、自分でもハッキリとわかった。覚悟しているつもりだったけれど、それは予想していた以上にわたしを打ちのめした。きっと、もう二度と、雅彦さんから連絡がくることはない。そんな絶望的な予感が、わたしを襲った。
 次の日、わたしは離婚してから初めて、自ら雅彦さんの携帯に電話をかけた。
 呼び出し音が鳴るたびに心臓も高鳴ってゆく。何度目かのコールの後に、聞き覚えのある懐かしい声がした。
「はい、もしもし」
「雅彦さん? わたしです、小麦です。今、電話しても大丈夫?」
「珍しいね、小麦のほうから連絡くれるの。ちょうど今、外回りから職場に戻るところだよ。それにしても、どうしたの? なにかあった?」
 電話の向こうから街中の雑踏が漏れてくる。愁いを含んだ優しい声に、耳がじいんと熱くなった。
「いえ……いつもご心配いただいて、ありがとうございます。それと、ご結婚されたって母から聞きました。おめでとうございます」
「ああ、どうもありがとう。わざわざ自分から報告するようなことでもないと思っていたんだけど、結婚について訊かれたので、つい」
 喜びとも嫉妬ともつかない曖昧な感情が這い上がってくる。わたしは慌てて、その感情を無理やり押さえつけた。
「それで新居はどちらに?」
「実を言うと、新居はまだ決まっていないんだ。ちょっと事情があって、しばらくは君と暮らしていた以前のマンションに、そのまま住むことになりそうだよ」
 わたしと結婚生活を送っていた部屋で、わたしの知らない新しい女性と二人で暮らす。残酷な現実が心にきりきりと爪を立てる。
「そう……あのマンションで暮らすのね」
 それからは何を話したのか、全く覚えていない。ただ雅彦さんの声の余韻が電話を切ってからも、いつまでもわたしの耳の奥に残っていた。
 雅彦さんが、どんな女性を新たな人生の伴侶として選んだのか、とても気になった。歳はいくつなのか、どんなヘアスタイルをしているのか、身長は、体重は。お酒は好きなのか、好きだとしたら、何のお酒をどのくらい飲むのか。

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