小説

『インドの観覧車』緋川小夏(『赤い靴』)

 わたしの朝は、一杯の日本酒から始まる。そこからはもうエンドレスだ。呂律が回らず、家の中は散らかり放題。浮かれて、飲んで、吐いて、自己嫌悪に苛まれる日々。「もう、お酒は止めよう」何度もそう思った。でも駄目だった。
隠されても、説得されても、泣かれても、どうしても止められない。調味料の料理酒やみりんまで、家中のお酒を飲み尽くした。大人になり「お酒」という遊園地の入場チケットを手に入れたわたしは、酔ったときの強烈な多幸感を手放せなかった。
そして、わたしは、壊れてしまった。
 アルコール依存症専門の病院に強制的に入院させられたわたしは、退院すると同時に夫から離婚届を突き付けられた。当然だと思った。今は定期的に通院しながら外来治療を続けている。
 診察と勉強会を終えて病院の外に出ると、傾きかけた太陽が遠い山の稜線にぽっかりと浮かんでいた。わたしは処方箋で出された薬を受け取り、再びバスに乗り込む。車窓から見える海は、強い西日を反射して黄金色に輝いていた。

 自宅に着く頃にはすっかり日も暮れて、風が冷たくなっていた。あちこちの路地から漂ってくる夕餉のにおいが鼻孔をかすめる。
「ただいま」
 玄関のドアを開けると、廊下の奥にあるキッチンから温かな人の気配がした。
「あら、おかえり。ご飯できているわよ」
 振り向いた母の後ろでは、コンロにかけられた鍋がコトコトと心地よい音をたてている。
 やさしい生活の息遣い。通院の日は帰りが遅くなることが多いので、夕食は母が作ってくれていた。
「ささ。手を洗って、お茶碗並べてちょうだい」
 わたしも時々、母と一緒に料理を作ることがあるけれど、使える調味料が限られているので料理がつまらなくなってしまった。アルコールを多く含む調味料を摂取すると、服用している抗酒剤が反応して気分が悪くなることがあるので仕方がない。
 アルコール依存症という病気は、決して完治することのない不治の病だ。ただひたすらに『お酒を飲まない日々』を地道に積み重ねていくしか、生きる術がない。
「それで、今日はどうだったの」
 いただきます、と箸を手に取った瞬間、母に訊かれた。
「どう、って別に。診察してもらって、勉強会に出て、薬を処方されて、いつも通りだよ」
 母の友達は、既に孫が生まれて「おばあちゃん」に昇格している人が多い。早くに夫に先立たれ、一人娘は嫁に行き、これからやっと自分の時間を謳歌しようと思った矢先にこんなことになってしまった。きっと母は内心、わたしを恨めしく思っているに違いない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10