小説

『ハイクラッシュデイズ』マオドダマル(『奥の細道』)

 古池や蛙飛び込む水の音:松尾芭蕉

 PACHIN!と小気味よい音が鳴って、響いた。春ですねーって爺はもっともらしく顔面の複雑な皺模様をたわませる。音楽はデーモニッシュだとゲーテはいうんだよ。あれは至言だなぁ、音というのは様々な事物に紐づくからね。懐メロは青春の思い出を、記憶の古井戸の底から引っ張り起こす。鹿威しはデシベルにしてみればさほどの音圧にならないのに、そいつが静寂を破るのも、やはり音によって事物が空間を失うからなんだ。なぜといって、音は様々なものに結びつくけれど、目に見える糸ではない。つまり因果律を解き放ってしまう。それが一種の解放感やカタルシスになる。いや~実に深い。

 ホーホケキョ若駒走り鳴るヒズメ

などという戯言を聞く耳もたぬリクミは、じっくりと次の一手を捻っていた。
 目の前に対坐するご老人は、自称「奨励会の隠玉“だった”」らしい。リクミが観察するに、この男の最大の強みは、相手を絶妙なタイミングで揺さぶる洞察力だろうと思う。しかし、落ち着いて打ち進めれば、爺の布陣は意外と脆く、うっかりを積み重ねて簡単に白旗を上げてくれる、はずだった。
 ところが、今日はなかなか負けてくれない。リクミは角も飛車も取られた状態で、鼻息荒く、眉間に深い皺を刻んだ。
 ふふふふ。
 「なに、その余裕。あームカつく」
 「リクミさん、心のゆとりは視野の広さだよ。歩だよ歩」爺がホレといわんばかりに顎をしゃくって、リクミの注意から反れていた駒に意識を促した。
 「悪いとこだよ、リクミさん。たかが歩、なれど歩。頭っから役に立たないと放って置かれては歩だっていじけて役に立とうとは思わなくなるよ」みんな主役、all for one, one for allなどと呟いている。
 リクミは、なんだか癪だった。きっと歩を促したのはアユム(歩)のことを言いたいにちがいない。アユムが春休みを爺の家で過ごしたいと言ったのが、一昨日のことだった。面食らってひっくり返りかけたリクミに「僕たちがこの街の中で、どれだけ成長できたかを確かめたい」とかなんとか、それ以上の理由はもはや聞きたくても、恐ろしくて聞けなかった。リクミは、それもあって、爺の目の奥を探りにきたのだ。しかし、いまのところ、目ぼしい様子の変化や込み入った事情は読み取れないでいる。
 リクミは、爺の言葉を無視するように、歩には触らず、金を進めて桂馬に取られた。いろんな思いを巡らせているうちに、持ち駒はなにも無くなり、気がついたときには、負けていた。いつものパターンだ。
 「リクミさん悩みは深し春の風」

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