小説

『異次元の私刑』岩崎大(『猿蟹合戦』)

 とんがり鼻の男は、猿顔の男と会話することの難しさを思い知った。意を決して話しかけた結果、男と老婆が知人であることだけはわかったが、どんな関係であるのか、あの日、男はあの現場で何をしていたのか、そして男は老婆の死を知っているのかさえも、わからずじまいだった。あの男もまた、異次元の存在なのである。しかし、はた迷惑に時間を歪めるだけの老婆とは違い、猿顔の男には、街を侵食していく恐ろしさがあった。男が歩き去ったその空間にも、近寄りがたい残滓がこびりついている。男が歩けば歩くほど、街は少しずつ異次元の世界に侵されていく。死が纏い付くことによって、人々はその恐怖にはじめて気づいたのである。しかし、あの男でさえ、時を歪めることはできなかった。これまでそうであったように、男は人々と同じ時間を過ごし、街を異次元へと侵食すること以外には、何の咎もないのである。街が刻々と蝕まれるのを止める大義を、人々は求めていた。ただ一つ、老婆の死という現実だけが、あの不愉快な笑顔を咎めることができるのだ。お人好しだが邪魔者だった老婆は、気づかせた者なのか、もたらした者なのか、それとも。とはいえ、死んでしまえば聖人君子だ。

 はじめに殴ったのは、トゲ頭の男だった。老婆との関係を自分で聞いて、男がそれに答えようとしただけなのに、その一音目を耳にしたとたんに、答えを聞こうともせず、顔面に思いっきり拳骨をぶつけた。猿顔の男が殴られる理由がないということは、周りにいた仲間たちもわかっていたが、そう思うことを拒絶した。特にとんがり鼻の男は、自分の経験上、トゲ頭の行動は仕方がないことだとさえ思った。何も咎めることはない。ここにいる時点で、時は少しだけ止まることを許されているのだ。猿顔の男の部屋は、予想していたよりもはるかにモノで溢れ、生活感が滲んでいた。トゲ頭の男に殴られて倒れた先には、独り身とは思えないほど多くの、統一感のない食器が並べられていて、はずみで割れた皿たちは、白々しいほどの大音量を響かせた。その破片が猿顔の男の腕を擦り切り、不味そうに血を吸っている。床を這う血液のその近くには、見たことのない鮮やかな赤色の野菜があり、不愉快なグラデーションがつくられた。壁には肌けた女の絵が貼ってあり、椅子には、男の尻をそのまま置いてきたような皺の寄った手拭いが敷かれていた。この部屋をしばらく眺めているだけで、男の生きてきた全てがわかってしまいそうだった。だからみんな、いらいらしていた。何も見たくはなかった。あれほど不気味だったこの部屋の住人のことさえ、見たことがあるというだけで、他のものを目にするよりもマシな気がした。
 とんがり鼻の男は、トゲ頭の男に代わって、倒れている男に歩み寄り、髪を掴んで頭を持ち上げてから、小さなナイフの刃先を男の頬に置いた。自分の役割を果たすことだけに専念するのだ。まずはこの頬の膨らみのなかで、もっとも適切な刃の置き場を探す。それが終わってから、用意していた言葉を思い出せばいい。しかし、持ち上げた顔が首元からぐらついて、頬とナイフが少し離れたその一瞬に、頬は頬ではなく、顔になった。目に映ったのは、殴られて腫れ上がり、真っ赤になった、あの笑顔だった。普段よりいっそう際立っているその笑顔はもう、とんがり鼻の男の許容を超えていた。怯えるように目をつぶり、ナイフを持った右腕をやみくもに振り下ろした。ただ、ナイフを上向きに持っていたので、握った拳が男の足を叩いただけだった。二度繰り返した後、ナイフを下向きに持ち替える少しの理性を取り戻し、再び振り下ろした。ナイフは男の太ももに深く突き刺さり、弾むようにして抜き取られた。猿顔の男は唸(うな)り声をあげた。その場にいた者たちは、そこではじめて、この男が唸ることができるのだと知った。その声を聞いたとんがり鼻の男は、反射的に腕を止めて、なぜか赤く染まっている自分のナイフと、震える右手を理解しようとする。短いのか長いのか誰にもわからないあいだ唸っていた猿顔の男は、やがて声を止め、しばらくうつむいて黙した後、仕方なしといった態度でなんとか立ち上がり、どこかへ向かって歩き出した。刺されたことも、自分の部屋に人が押し入っていることも知らないかのような、足は痛いがひとまず飯でも食おうかというような、あまりにも素朴な歩みだった。

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