小説

『魔鏡譚』蟻目柊司(『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド)

「神通力を持つ一人の兵士は、凡百の一個師団に勝る」
 中佐は興奮したように立ち上がると、付いて来い、と言って部屋を出て行きました。
 僕は中佐の後をついて施設内を進みました。暗い廊下の先の重い鉄扉を兵隊が二人掛かりで開けると、奥には独房が連なっており、それぞれの房の中には入院患者の服のような白い格好の者たちが大勢いました。
 目隠しをして絵画を眺める者、ガラス瓶の中の釘に手をかざす者、宙吊りになったまま何やら呪文を唱える者。そして、銃を手に巡回しつつ彼らを怒鳴りつける数人の兵士たち。
 ある独房の前で中佐は立ち止まりました。その独房の中にいたのは、恐ろしく美しい白人の少女でした。
 歳の頃は十六、七。肌は淡雪のように白くきめ細やかで、豊かな金髪は柔らかく煌めき、青い瞳は吸い込まれそうなほどに澄み切っていました。
 彼女は男物かと思われる薄い麻布のシャツを着ただけで、白く細長い脚は露わになっており、両の手は木製の手枷に繋がれていました。
「これは被験体七十二号だ。ロシア人の間で魔女の噂が立っていたというので、ハバロフスクの小さな村から連行してきた。名をヴァシリーサというらしい」
 僕は彼女から目を離せずにいました。
「貴様にちょっとした余興を見せてやる」
 そう言うと中佐は僕の軍服のポケットを探り、真鍮製の懐中時計を取り上げました。それを傍らに立つ兵士に渡すと、その兵士は檻を開けて独房に入っていきます。
 兵士は腰に下げた短刀を抜き、冷たく光る刃を少女の首筋にあてがいました。
「中佐、何を!?」
 思わず叫んでしまった僕を中佐が睨みつけます。
「黙って見ておれ」
 兵士がすっと刀身を滑らせると、少女の首に一筋の紅い線が引かれ、一瞬の間をおいて鮮血が白い肌を伝いました。
 兵士が懐中時計を少女に手渡します。受け取ったまま動かぬ少女を促すように、兵士は拳銃を構えました。
 少女は呆れたようにため息をつくと、手枷のついた手で僕の懐中時計を血の滲む傷口に這わせました。裏の金属面に血を塗りつけるようにすると、瞳を閉じて時計を額に当てます。目を瞑ったままロシア語と思われる言葉で二言三言呟きました。
「やつめ、また魔鏡を拵えたぞ」
 中佐が満足そうにニヤニヤと笑いながら右手を上げ兵士たちに合図を送ると、全ての照明が落とされあたりは暗闇と化しました。
 あちこちの独房から不安に駆られた者たちの叫び声が響き、監獄内をこだまします。
「黙れ! 黙らんか!」

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