小説

『蜘蛛の祈り』川波静香(『蜘蛛の糸』)

 蜘蛛が上から糸を垂らすと、アリはすぐに気づいて糸にしがみついた。蜘蛛は慎重に糸を操り、ぶら下がっているアリを池のふちに降ろそうとした。
 そのときだ。何者かが、横からすっと糸を奪い去った。蜘蛛がぎょっとして、見上げると、そこには幼い人間の子どもの姿があった。男の子だ。
 男の子は糸の先にぶら下がったアリを見つめて嬉しそうに笑っている。そのうちに銀色に光る糸をくるくる振り回して遊び始めた。
 ふいに、糸の先にいたはずのアリの姿が見えなくなった。すぐ下を見ると、アリは池に落ちて、あっぷあっぷともがいていた。
なんということを――!
 蜘蛛は悲鳴を上げて巣から飛び降り、池に向かって一目散に走り出した。
「なにしてるの?」
 何人かの子どもたちが、男の子の周りに集まってきた。
(危ない!)
 そう思った次の瞬間、目の前がまっ暗になった。同時に、身体に鋭い痛みが走った。
 蜘蛛は自分があっけなく踏みつぶされてしまったことに気づいた。激しい怒りと悲しみが混ざり合い、呻き声が漏れた。けれど、その声が遊んでいる子どもたちに届くことはなかった。
しばらくすると身体から魂が抜け出し、宙を漂い始めた。大きな手のようなものにすくいとられて、天に向かってのぼっていく。
 ああ、お釈迦様が自分を連れ戻しに来てくださったんだ――。
 蜘蛛は心の中でつぶやいた。

 極楽に戻った蜘蛛は、蓮池のふちに虹のように美しい巣を幾重にもこしらえた。もはやそれは、獲物を捕らえるためのものではなかった。
 お釈迦様が池のふちに立ち止まり、地獄の底でうごめくひとりの人間に向かって、一本の糸を投げかけた。蜘蛛は銀色に輝くその糸が、今度ばかりは切れることのないよう、祈り続けた。

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