小説

『ミス鼻子』中村一子(芥川龍之介『鼻』)

「何かこうなった原因に思い当たることがありますか」と。
 その度に鼻子は「別にこれといってありません。最初に鼻にポツポツが出来たので、ニキビかなと思って―」と説明してきた。
 だが、誰にも言ってないし、この先も言うつもりはないが、本当は思い当たる節が大有りだった。科学的じゃない。しかし、それしか考えられなかった。自分の恥部、傲慢で鼻持ちならない自分の性格が関係していたから、口に出せなかったのである。

 忘れもしない大学4年の夏。友人の真実の実家に遊びに行った。彼女の実家は茨城の田舎で養豚業を営んでいた。東京生まれで東京育ちの鼻子は故郷がない。だから、野山と田畑に囲まれたのどかな田舎に憧憬の念があった。
 しかし、電車を降りてバスに乗って、真実の家に着くまでの20分の間にそんなものはあっという間に吹き飛んだ。
 バスの車体を突っ切って、入り込んでくる養豚場の糞尿の匂いに鼻子は気絶しそうになっていた。その20分をなんとか口呼吸でしのいだが、バスから降りた途端、鼻子はつい油断して息を吸い込んでしまい、草むらに嘔吐した。真実が言った。
「今日は風が出てるから、けっこう匂ってるよね」
(結構? とんでもない。口で息をしてないと、異臭で呼吸困難になるくらいよ)
 1週間、泊まるつもりでやってきた鼻子だったが、この匂いは自分には耐えられないと観念して、「母が調子が悪いと携帯に電話してきた」と嘘をついて、翌日、帰らせてもらうことにした。
「だったら、豚舎と、賭殺場だけでも見学して帰ったらいい」
 善良で事の重大さを認識していない、真実の父親が鼻子に言った。さすがに賭殺場はやんわりとお断りしたが、泊めてもらい、食事の御馳走になった手前、豚舎を断るわけにはいかない。炎天下のジリジリ焼けつくような草原の小道を通って、家に近接する豚舎に向かった。
 糞尿との真っ向勝負だ。しかし、この苦行を終えたら帰れる。そう思って豚舎の近くに来ると、ドドドドドドーと地響きがして、真実の姿を捉えた何百頭のブタたちがこちら側にかけてきた。もちろん豚舎の柵のなかであるが、その脚力と鳴き声の迫力は、スターウォーズの戦闘シーンの音響顔負けの恐ろしさだった。
 真実はブタの背中をなでて、「元気だったー?」と甘い声を出す。それでいながら、携帯の鳴る音を察知して、木陰に移動して話し始めた。長い電話だった。体をくねくねして笑っているところを見ると、彼氏なんだろう。鼻子も一度会ったことがある。真実にはもったいないくらいのイケメンだった。
 それにひきかえ、自分はおぞましい匂いと鳴き声から逃れられずにいる。汗は毛根から吹き出し、顔はカッカしている。Tシャツもジーンズも汗でびっしょりだ。
 鼻子は思わず、豚舎の中のブタたちに向かって、「そんな醜い鼻をつけて、よく生きてられるよね。どうしてあんたたちみたいな動物がいるわけ?」と悪態を突いた。

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