小説

『ヤマネコの夜』藤野(『注文の多い料理店』)

「ここのガイドたちは食べることにハマっていると聞くし、後ろのスペイン人は奥さんのストールを作ってあげたいらしいよ。前の女性はかなりの常連で、いつもあぁやって網で捕まえて行くんだ」
 男性の顔を正面から見つめる。
「何をですか?」
「ヤマネコに決まっているじゃないか」男性は突然呆れたように顔をしかめて私から離れると、窓の向こうにカメラを向けてもうこちらを見ることはなかった。
 ガクンと揺れて車が止まる。
 囁くように笑いながら後ろのカップルがするりと私の横を通り抜けて外へ出て行く。前の女性も長い網を引きずるようにしてそのあとに続いた。女性の網が完全に外の闇夜に吸い込まれるのを眺めていたら、男性が舌打ちをして、私を踏みつけるように乗り越えていった。
 私が降りるとすでにみんなは歩き始めていた。ガイドの女の子だけが私が降りるのを待っていてくれたようで、私が来ると黙って懐中電灯を灯し、車の明かりを消した。
「ここからジャングルに入るからね」男性ガイドが小さな歌うような声でそう言って舗装されていない横道を進んで行く。懐中電灯の白い光は足元を照らすのに精一杯で周囲の闇の中の侵入を防げるものではなかった。カラカラ、パキパキと聞いたことのない不思議な音が鳴り続けている。
 時折、カップルの男女が私にはわからない言葉で囁きあう以外は誰も何も言わなかった。網を持った女性は闇の奥に何か光るものが見えると声も上げずに凄い勢いで網を振り下ろした。ずるりと引きずり出されるたびに白かった網は色んな色に染まっていく。網の中で何かが蠢いているのはわかったが、いくつかはジャングルに返され、いくつかは女性のポケットにしまわれ、何が採れたのかは見えなかった。網に点々と赤黒いシミがついているのは見えた。
 一度、女性のポケットから何かが落ちて逃げようとした。サァー、と凄い速さで逃げ出したそれをガイドの女の子が足で踏みつけた。にんまりと嬉しそうに微笑んだのを見て、「何がいたんですか」と尋ねようとした。でも遅かった。その娘はパッとしゃがんだと思うと一瞬で口の中にそれを放り込み、そのまま何もないような風で歩き出した。バキバキと嚙み砕く音が聞こえ、何か足元に吐き出された。私が通り過ぎる時に白い光を当ててみたら小さな骨のようなものが転がっていた。
 男性のガイドが立ち止まり、何かを懐中電灯で照らした。「オォ」と歓声が上がり、皆が集まる。私も覗き込む。大きめのうずらの卵の殻ようなものがそこに落ちていた。殻のようなものには粘液のような濡れたあとが残り、道の奥へと続いていた。
「何の卵ですか?」
 私がたずねると、写真を撮っていた男性は嘲笑交じりに鼻を鳴らした。ガイドの男性が「ヤマネコだ」と小さな声で教えてくれた。「食事が足りていないようだな」ヤマネコの卵なのだろうか。それともヤマネコの食事の後なのだろうか。もう一度尋ねようかと思ったが、皆の空気に水を差すのも悪いのでやめておいた。

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