小説

『初雪、ではない。』田中慧【「20」にまつわる物語】

 「いや、応援してあげたいと思ってます」
 肩の荷が下りるのと同時に、また別の感情が湧き上がった。だがこの感情にはきっと名前がない。怒っているわけもないし、悲しんでいるわけでもない。感情ではないのかもしれない。もっとも近しいもので例えるなら、これは悟りと表現した方がいいのだろうか。
 「実は、なあ」
 つん、つん、とウキが揺れる。なんとなくそれを眺めていたが、どうやら魚が掛かったようで手袋の奥に小さな振動を感じ取ることができた。引っ張った方がいいのか。小物を釣り上げて、大物を逃すか? 私はゆっくり竿を置いた。

 「こないだ、ウチ来てたぞ。遊びに。晩飯食って帰ってった」
 「いつですか?」
 「こないだ」
 「いや、まあ…。そうですか」
 わざとらしくうなだれてみる。
 「どうせ僕が出張行ってた時ですよ」
 「いつ行ってたんだ?」
 「12月の上旬くらいです」
 「ああ、じゃあ多分そうだな。…君が私に気を遣っているだけなのなら、それはナシにしようじゃないか。もうそういう時代だと思うんだよ」
 部長は私の竿が揺れていることに気づいたらしい。釣れてるんじゃないか、それ。と言って竿を上げるジェスチャーをした。
 「それが釣れたらもう帰ろう。20分くらい経っただろうし」
 「まだ8分しか経ってませんよ」
 固い事を言うなよとばかりに部長は腰を上げる。まさかこの人と釣りに行くなんて思ってもいなかった。私とは別の部署だし、長女とこの人の息子が付き合わなければお互いに言葉を交わす事もなかっただろう。業績不振で切羽詰まっており不穏な空気の流れる社内でいつもどこか陽気なこの人は、きっと本当に何も考えていないんだろう。
 「社内の人間と遊びに行く事なんかないんだけどね。君は特別だ」
 部長は自分の竿を片付けながらそう呟く。
 「ほら。逃げられるぞ。早く引け」
 私は言われるがまま竿を持ち、リールを巻いた。思っていたよりも大物らしい。竿ごと持っていかれそうなほど抵抗される。
 「最後の最後でいい当たりじゃないか」
 嬉しそうな顔をする部長。時間を掛けて、ゆっくり引き上げる。
 部長に気を遣っているわけでもないし、もし別れた時に私の社内での評価が下がってしまうのではないかという不安が募っているわけでもない。

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