小説

『初雪、ではない。』田中慧【「20」にまつわる物語】

 部長も私も着膨れしていた。
 釣り糸はピクリとも動かず、ただ時間だけが刻々と過ぎていく。
 ここに到着する少し前にちらつき始めた雪は今では本降りになっている。向かっている車中、部長は助手席で「初雪か?」と運転する私に尋ねたが、先週同じ質問を会社の喫煙所で私の知らない女性社員にしていたのを私は知っている。
 この間のクリスマスに妻から貰った手編みの手袋はあまり効果がなく、竿を持つ手の感覚はほとんどない。結婚して18年経つが、周りに比べると夫婦の関係は良好だといえる。 
 最大の要因は今年から高校生になった長女の存在だろう。我が家の決定権はもう既に長女にある。幼い頃から長女はしっかり者で、三つ下の弟の面倒もよく見てくれていた。幼稚園に入ってから今まで、泣いているところを私は見たことがない。妻の前では泣いているのかも知れないが、妻も私にそのような事は言わない。子の涙を引き出せるのは母としての強み、として私も受け取っている。
 「寒いな。」と部長がぼやいた。
 「そうですね」と返す。
 お互い何のために今この寒空の下、釣れもしない魚を待ち続けているのか分かっているはずなのだがそれが話題に出る事はない。できればこの寒さから早く逃げ出したかったので私からそれを振る事もできたのだが、ここは部長が仕掛けてくるのを待った方がいいと判断したせいだ。
 「あと20分粘って、それでも釣れなかったらどこか飲みにでも行くか」
 「いやあ、代行とか呼ぶの面倒じゃないですか」
 「そんなのすぐ呼べるだろう」
 ははは、と部長が乾いた笑い声をあげる。
 「部長…。」
 「なんだ? そうだな…。そうじゃないよな」
 部長は自分の中で噛み締めるように頷いている。何度も。そして、口を開いた。
 「20分で終わらせよう」
 「もっと早く終わらせましょうよ。風邪引いちゃったら元も子もないですよ」
  風邪は引きたくないなあ、と笑って、急に真面目な顔をした。
 「俺は応援してやりたいと思ってるよ」
 部長はまた笑った。
 「そりゃあ僕も応援したいですよ。でもまあ、そうですね。そうだと思います」
 「何がだよ」

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