小説

『やまなしの夜』星谷菖蒲(『銀河鉄道の夜』『やまなし』『押絵と旅する男』)

 絵の中央辺りに、二人の人物が浮き出していた。というのも、その二人だけが押絵で作られていたのである。一人は濡れたように真っ黒な天鵞絨の背広を着た若い男で、黒い髪を後ろに撫でつけていて、もう一人は藍染めの振袖に、金糸の帯の映りのよい束髪の美少女で、二人は手を握ることもなく、しかし離れることもない微妙な距離を保って並んで立っていた。
「きれいな人だね」
「ああ……そうだね。とてもよく出来ている」
 押絵が珍しいのか、少年が顔をうんと近づけて覗き込む。確かに、精巧な細工だ。二人の艶やかな黒髪は恐らく本当の毛髪を一本一本丹念に植え付けたのであろう。男の背広も娘の振袖も、皺や細かな模様まで作り込まれている。虫眼鏡で覗けば、二人の表情までわかるのではないかとさえ思われた。
 じっと覗き込んでいると、押絵と絵具との境界が曖昧になってきて、意識が吸い込まれそうになる。がたたん、と揺れる列車の振動で我に返った。
「ねえ、おじさんはどこまで行くんだい?」
「……わからないよ。君はどこまで行くんだい?」
「僕はね、どこまでも行くよ。……どこまでも、ずうっと」
 少年はまるで真っ白な太陽を見たように眩しそうな顔をして窓の外を見た。けれども外は真っ暗で、遠くに無数の星が白々しく光っているばかり。少年の言葉を聞いていると、なぜか胸の奥がつっかえるような気持ちがした。
 しばらく、少年も私も言葉を発さなかった。がたがたと音を立てて、鉄道は進んでいく。途中、天の川の下を通った時は窓の外が真っ白な光で満たされて目を閉じた。その後、何となく、押絵を窓に立てかけた。押絵の二人が窓の外を見られるように、キャンバスを外側に向ける。すると少年が、こちらを向いた。
「おじさん。おじさんに大切な人はいる?」
「さあ……わからない。私は、何も覚えていないんだ」
「その絵の人たちは?」
「わからない……もしかすると私の知っている人なのかもしれないし、まったく知らない人なのかもしれない」
「そうなんだ……」
 私の言葉に、少年は目を伏せた。無邪気に微笑んだかと思うと、にわかに顔を曇らせる。不思議な子だ。あどけないと思っていたら、急に大人びて見えるのだから。
「君には大切な人がいるのかい?」
 思い立って訊ねると、少年は顔を上げた。

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