小説

『ローアングル蜘蛛の糸』柘榴木昴(『蜘蛛の糸』)

 ここはまさに地獄だった。生前悪事を行った罪人共が阿鼻叫喚そのままに殺され転がり蹂躙されまくっている。叫喚地獄の一丁目は、特に極悪人が何兆年もかけて責め苦を受ける地獄中の地獄だった。そのため監督責任の座に就く森羅万象百鬼丸は地獄の威信を背負っていると言っても過言ではなかった。
 そんなわけで、今日も彼は部下の鬼たちをけしかけて殺戮の限りを尽くしていた。だがここ最近、ふと気になる罪人がいた。何度痛めつけてもふてぶてしく、時には鬼どもの足を引っかけ逆に針山にぶつけてせせら笑うような高慢ちきである。今もまた、鬼の頭を踏んづけて血の池地獄に突き落としていた。この男を帳簿で調べると犍陀多という者であった。罪状は殺しに窃盗放火と根っからの悪人そのものである。よし、今日はこいつをとことん虐めてやろうと心に決めた。
 血の池で責め苦をうけていると部下から聞いて、やってくるとさすがに失血と溺死を同時に見舞われる苦しみには耐えきれないのか、犍陀多も浮きつ沈みつただもがいていた。森羅万象百鬼丸はほっとするのと同時に半分肩透かしを食らったような気持ちだったが、瞬間、犍陀多の眼に力が宿るのを見逃さなかった。意志と呼ぶそのまなざしの強さ。その視線ははるか上空に向かっている。この地獄でまだ空を仰ぎみる気力があるとはあっぱれであるが、そんな感想もすぐに吹き飛んだ。
 なんと、一筋のか細い光がすーっと音もなく空から降りてきたのだ。空と言ってもここは地獄の一丁目。天界ははるか上空三千兆メートルだ。こんな真似ができるとすれば、天界の中でも相当の実力者しかいない。そして気まぐれを起こすような人物と言えば、心当たりは釈尊しかいなかった。いつから糸が垂れているのかはわからないが、犍陀多は気付いているのは間違いなかった。
「ちいっ、あのクソ坊主。三千と二百万年前にも同じようなことがあったぞ」
 勤勉な森羅万象百鬼丸のこめかみに欠陥が浮き出る。
 この犍陀多という男に、一片の哀れみがあるとでもいうのだろうか。蜘蛛の糸のような細い光の筋は、真っすぐ狙って降りてきているようにも見えた。当の犍陀多は水を得た魚、それもトビウオのように跳ねあがり、周りの罪人共の頭を踏みつけよじ登り、鬼の振り上げた金棒まで蹴ってその細い糸をしっかりとつかんだ。あっと鬼達が声を漏らす間にも、するすると糸を伝って登っていく。
 このまま逃げれられては地獄監督鬼番守の名折れ。森羅万象百鬼丸は聞いただけでも失神しそうなほどの怒号で鬼どもに指示を出す。
「犍陀多を捕まえろ! 早く追え!」
 だが溺れる者はわらをもつかむ。それが希望の光であったならなおのこと。鈍重な鬼よりも人間たちの方が俄然勢いを得て、怒号を聞くが早いか上空に光る一筋の糸にあっという間に群がった。底なしの筈の血の池は鬼と人間で埋め尽くされ、沈むよりも早く覆いかぶさっていく。さらに地獄の果てからとめどなく罪人がやってくる。森羅万象百鬼丸も駆けつけて金棒で鬼も人間もかまわず蹴散らしていくが、地獄中の人間が集まってきているのだ。次から次に無尽に沸くし、殺しても殺しても復活する始末。そうこうしている間にもどんどん猿のように犍陀多は糸を昇っていく。もう到底手が届かない。その辺の人間の頭をもぎ取って犍陀多に向かって投げつけたが、もうすでに豆粒より小さく見える犍陀多は、投擲の届かぬ上空まで昇っているのだった。こうなると並大抵の鬼ではもうどうしようもなかった。

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