小説

『飛べなかった記憶』高橋己詩【「20」にまつわる物語】

 蛍光灯から紐がぶら下がり、その紐の先には、親指程度の大きさの熊の人形がぶら下がっている。畳の上に転がる私は、しばらくその物体から視線を逸らさずにいた。一度紐へと伸ばした左手は、今は頭の下に入れている。
 縁側から差し込む陽の光は、この和室全体を照らすには充分な量だった。

 ふわり。

 熊の人形が、ゆっくりと重力に逆らう。一メートルほど浮上したところで静止し、数秒。今度はすとんと落下する。紐がぴんと張り、元の高さで落下が止まった。それを真下から見ていた私は、反射的に目を閉じてしまった。
 今度は、どこかで目にした『フーコーの振り子』のように穏やかに、熊の人形が揺れる。それを見ながら私は、こんなこと科学的に有り得るのだろうか、と思った。
 科学的という言葉を曖昧に感じ始めたのは、いつ頃のことだっただろう。
 科学というのは理論的で実証的なものである、と大概の辞書や辞典は説明している。私が言えることではないけれど、それ自体に間違いはないと思う。しかし、とは言え実験や調査は新たな発見を導き出し、時として記録が塗り替えられ、事実は覆されてしまう。当然、既存の理論や前提も改変せざるを得なくなる。歴史の教科書が改訂されるように、科学もまた、何らかのきっかけによって揺らいでしまうものなのだ。
 科学的という言葉は、実のところ変化を示唆しているのかもしれない。私は天井板の染みを見つめながら、そう結論付けた。
 いつかきっと、角運動量保存の法則も見直しされることになる。

 ごろり。

 寝返りをうつと、頬に畳が触れた。そのまま手足に力を入れて伸びをする。体が千切れてしまいそうな程そうしていると、今度は腹部が力んだ。
 上半身を起こしてテレビを点けると、画面一杯にフラミンゴの群れが映し出された。ドキュメンタリー番組だろうか。
 フラミンゴの姿は見事に一様で、「これらは単細胞生物なのである」と解説を添えられても疑念の余地がない程だ。これがアフリカで撮影された映像であることを、ゆっくり流れるテロップが告げた。干潟に足の先を突っ込むフラミンゴの数は、二十万を越えるのだとか。
 固定カメラが捉えるフラミンゴたちの中に、私は見覚えのある顔を見つけた。それが私の親友なのか、親友に似ているフラミンゴなのかは判然としない。

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