小説

『手取り20万円』広瀬厚氏【「20」にまつわる物語】

 薄給をふところに私は家族4人で生活する、結露がひどくカビに悩まされる、築20年たった賃貸マンション2階西端の部屋へと帰宅する。
「ただいま。はい給料」と言って、私はふところから出した薄く軽い袋を、妻に申し訳なく手渡す。
「いつもご苦労様です」妻が言う。
 ご苦労様と言われて、毎度私は逆に恥ずかしくなり、返す言葉が見つからない。我が家には中3の息子と小6の娘がいる。なんだかんだ言ってけっこう金がかかると思われる。どうやって私の薄給と妻の週に4日のパート代で、毎月の家計をやり繰りしているのか、考えるも恐ろしくて妻に聞く事が出来ない。ただ私は封を切らずに給料袋を手渡すのみである。
「良かった。今月は20万円あるわ」
 給料袋の中身を確認した妻が言う。そして福沢諭吉20枚の中から2枚を抜いて、
「はい2万円」と、私に小遣いをくれる。
「ありがとう」私は礼を言って、面目無いが素直に貴重な2枚を受けとる。まことに情け無い体たらくである。それも私の歩んできた人生の結果だと思えば仕方ない。されど私はそれでよくとも、妻と子供達に対して大変申し訳ない。困ったものである。

 ここで簡単に私が歩んできた薄給取りへの道を述べる事にする。
 自分で言うのもなんであるが、小学生のときまでは勉強も運動もそれなりの成績を残してきた。学級委員なんかも任された。冗談が好きで、乗りが良く、友達と明るく過ごした。
 中学校がまずかった。暗くひん曲がった。通ったのは管理教育で知られる学校だった。思春期の私は本当に情け無くともよく耳にする話、幼稚な反抗心から勉強も運動も何もかも学校教育に刃向かい、自ら進んで放擲した。授業中は腕を枕によく眠った。運動は力を出さず適当にやった。それでも一応取り敢えずな成績は取れた。
 高校進学はどうでもよかった。とにかく高校ぐらいは行っておけと、親がうるさく言うので、家から一番近い高校を受験し入学した。そんな気持ちで入った高校である。いくら家から近くとも毎日登校する気などまるで起きなかった。遅刻やら欠席を重ねた。その結果、中学までと違って、まったく勉強について行けななくなった。喫煙やら喧嘩やら何やらで、何度か謹慎を食らった。結局中退した。
 高校中退後、ガソリンスタンドやら飲食店なんかでアルバイトをした。どれも長続きせずすぐ辞めた。自動車の運転免許を取ってからはトラックのハンドルを握るようになった。若い自分にとって結構な給料が貰えた。が、やはりひとつ所で長続きせず、職場を転々とした。
 いったいこの先どのようにして生きて行くべきか悩んだ。何か真剣に取り組めるものが欲しかった。いろいろと試してみたけれど、どれも自分の人生を賭けるまでの価値を見いだせなかった。生活のための仕事は相変わらず転々とした。いっそ頭を剃って出家でもしようかと真面目に考えた事もあった。

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