小説

『専業労働者』高橋己詩(『アリとキリギリス』)

 映像の内容に関する質疑応答を最後に、研修は終了しました。
 アリ太は研修室から出て、エレベーターホールへ向かいました。そこでは同席していた十数名の新人社員が、エレベーター待ちをしていました。
 アリ太も同じようにしていると、すいません、と声をかけられました。
「すいません」
「はい」
 はい、とアリ太は、間の向けた返事をしてしまいました。置いたままでしたよ、と声をかけてきた女が、ペンを差し出してきました。アリ太は、ありがとうございます、と礼を言いました。
「ペン、置いたままでしたよ」
「ああ、ありがとうございます」
 その女の素性を探るつもりはありませんでしたが、女は自ら素性を明かしてきました。契約を結んでからまだ三か月にも満たない新人だそうです。そもそも、一つの職場で長く勤めることができないそうです。飽き性だそうです。専業主婦になりたいそうです。
 分かりやすかったですね、とその女は言いました。
「研修のビデオ、分かりやすかったですね」
 それが本心なのか、アリ太にはわかりませんでした。しかし彼の意見も同じだったので、そうですよね、と同調しておきました。
「そうですよね。分かりやすくて、よかったです」
 そして女は、キリギリスです、と名乗りました。
「草下キリギリスとし子です」

 しばらく佐藤の様子は変わっていません。
 アリ太は、目の前で転がっている佐藤をまじまじと見ました。佐藤は、このまま眠りから覚めることもなく、何年もこの体勢でい続けるのでしょう。栄養失調や床ずれを起こすこともなく、何かを見つけることもなく、何かに見つかることもなく、きっと佐藤はここに存在し続けます。佐藤はそれで成立するのです。
 何も変化のないその過程を監視し、確かな方法で伝達していく。アリ太にとって、この仕事は誇りです。そもそも仕事、労働が誇りです。労働を介して社会の一部になることで、アリ太は生きていることを実感しています。
「おい」アリ太は佐藤に呼びかけます。「おーい」
「寝てばかりだと損するぞ」

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