小説

『専業労働者』高橋己詩(『アリとキリギリス』)

 アリ太は上半身を起こし、テーブルの上に置いてあるマグを手に取りました。マグの中の氷はすべて溶け、オレンジジュースは色が薄くなっています。

 ごく、ごく

 味も薄くなったオレンジジュースを飲み干すと、アリ太は立ち上がり、カーペットの上に転がっている佐藤をまたいでキッチンへと向かいました。
 ガスコンロの横には牛乳パックが置いてあります。持ち上げてみると、ほんの少し中身が残っているのがわかりました。冷蔵庫に入れるのを、すっかり忘れてしまっていたのです。冷蔵庫を開けても他に飲むものが見つかりません。仕方なくアリ太はパックに口をつけ、牛乳を飲みました。牛乳は、あまり好きではありません。砂糖っけのあるものが、好きなのです。
 アリ太は佐藤をまたいでリビングを横切り、元の位置に戻りました。佐藤は先ほどの場所で、先ほどと同じ体勢で転がっています。普段よりも若干呼吸が浅いようではありますが、上席に報告するほどの異常は見られませんでした。
 十畳ほどのリビングは日当たりが良く、壁が厚いからか隣の部屋の生活音は一切聞こえてきません。アパートからコンビニまでの距離、喧騒から離れていること、交通の便などといった立地条件からすると、家賃は六万円もしないだろう。そうアリ太は予想しています。正確なところはわかりません。ここは、佐藤が佐藤自身の名義で借りている部屋なのです。
 リビングの中央に転がっている佐藤を監視し、その状態を日没後に報告する。それがアリ太に課せられた業務です。単純な業務かと思われがちで、事実、他部署の職員からは明らかに冷ややかな目で見られていますが、これは決して生半可な気持ちで取り組めるような業務ではありません。少なくともアリ太はそう信じ、この三年半勤めてきました。

 三年半と一ヶ月前のことです。
 アリ太はシステムエンジニーアとして、電子機器メーカーに勤めていました。ある日、偶然にも求人誌を手にし、ある広告を偶然にも目にしました。当該広告には「懇切丁寧な指導あり」「頑張ったぶんだけ稼げるよ!」「給料が頭打ちになっているあなたへ」「みんな未経験からスタートです」といった甘い文言が並べられていました。で、転職を決意しました。

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