小説

『絶望聖書』柘榴木昴(『クーデンベルク聖書』)

 聞いたことがあった。中世の写本は常に声を出しながら行われていたと。教会の夜、修道士達はひたすらに聖書を紙へ書き写し、本を作っていた。その話を聞いたときは、夜の教会は日曜のミサより騒々しいなと笑ったが、それも何か流儀のようなものだと思っていた。だがそれは活版印刷が発明され、革命の幕があがる前のことだ。
 だがここで男の語る真意が、にじむように浮かんできた。
 この本が作られた時代に黙読そのものの技能がなかった。
 人々は黙読を手に入れたのだ。だがそれは何を意味する? このクーデンベルグ聖書は黙読によって何を生み出したのだ? 人間に何を与えた? 黙読することは、自分の内なる声を生み出すことだ。それは思考し内省することだ。まさか。
 首を絞める手が緩む。
 「ま、まさか」
 男が続ける。淀みないまだらな言葉で。沼地の魔女が遣わした蛇のように。
「いいかい……黙読以後人間は分裂を獲得した。人間は思考を始めた。行動はもはや結果のみを指して、人間は感情と性質を括弧に入れた。別れたのだ。人間性と人間はさよならをして、私の中に『私』と『他者』が同棲した。このクーデンベルグ聖書以前は、心と行動は一致していた。フロイトが無意識を見つけるのに三百年かかるがそれは随分速い発見なんだ。文字が生まれてから6000年もの間、私たちは一人称を知らないままに文と対話をしていたのだ。文字は表示であって『言葉』は神だけがもっていた。だから頭の中の言葉は神の言葉だった。ソクラテスも、ジャンヌ・ダルクも卑弥呼も、デルフォイの神殿に響く声は、天から降り立つ光の声とは、そう、己の内なる声だったのだ。このクーデンベルグ聖書以前、内省の言葉は神の声だった。人間はそうして奇蹟を失って個人を得た。まごうことなき理解者である神の影たる『私』を得たのだ」

 人間の精神構造が活版印刷によって作り変えられたとでもいうのか。
 だが確かに人類は言葉を獲得して猿ではなくなった。文字を発明して人間になった。印刷技術の発明はその後、言葉を目で読むものにした。それ以前は言葉で聞かされるものだったのだ。中世ヨーロッパではまだ伝令が主な通信手段だ。手紙があったとしてもそれは会話の代替品なのだ。
 与えられたものは与えられたもの以外を失う。私たちは何を失った? 神か、それとも思考と切り離された真の衝動か。動物たる野生の、自然の片鱗たる人間の地位か。
 黙読の声優は、かつて神と呼ばれた。生み出された心の言葉は神託と言われていたのだ。だが黙読の獲得は神と神託を人間の内なる声と思考に置き換えた。

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