小説

『トイレの平田さん』山名美穂(『祇園精舎』)

 4限目が終わり、給食白衣を着た木下が、廊下で彼の姿を見つけて声をかけた。それを聞いたクラスの女子たちが平田さんを囲んだ。僕は強い尿意を感じながら、目の前を塞がれてトイレに行けず、困ってその様子を見ていた。
「平田さん、どうしてたの?」
 女子にまとわりつかれた平田さんは、困惑しながらもちょっと嬉しそうだった。
「ずっといなかったから、どうしたのかなってみんなで心配していたの」
 木下がうそぶく。トイレ掃除が嫌だっただけだ。女子トイレの血は「女のセイリ」だったと、もうクラスの誰もが知っている。尿に便にゲロに血までついているトイレなど、確かに触りたくない。男でよかった。
「…インフルエンザで」
 もごもごとトイレの平田さんが答える。女子たちの顔に、安堵の表情が浮かぶ。
「もう治ったから、ありがとう」
 そのことばを受けて、松本が言う。
「よかった」
 トイレ掃除から解放されて。
 ふと思い出したように、金子がトイレの平田さんに聞いた。
「平田さん、名前なんて言うの?」
「名前?」
「うん、下の名前」
 みんなの期待が膨らむ。清・きよし・キヨシ。誰もがそう願っている。
「ちょっと大仰な名前だから、あんまり言いたくないんだけど」
清・きよし・キヨシ。なんなら清盛でお願いします。バカな気持ちが僕の中にも現れる。
「すみとも」
「スミトモ?」
 松本が間抜けな声を出した。
「藤原純友のすみとも。まだ分かんないか、みんなには」
 僕はふき出した。女子たちが一斉に僕を見て、金子が
「なによ」
 と怒った顔で言った。
「なんでもない。トイレ行きたいから、どいてよ」
 女どもが開けた道を、僕はこそこそと通ってトイレに入った。小便器で用を足しながら、当たらずしも遠からずな名前だな、と思った。

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