小説

『蟻』杉長愁(『蟻とキリギリス』)

 おじさんが、いやそのキリギリスが歌い終えた時、俺たちはめいっぱい拍手をした。安藤のお父さんからもらった食べ物を大事そうに抱えたまま、キリギリスはまた何度も頭を下げた。
 その時、安藤のお父さんにまた電話がかかってきたんだ。どうやら会社でトラブルがあったらしい。安藤のお父さんはバタバタと身支度を整えて、俺たちに向かってこう言った。
「ごめんよ。今すぐ会社に行かなくちゃならなくなったよ」
 するとその様子を黙って見ていたキリギリスが声をかけた。
「緊急なんですよね?もしよければ……、どうですか?」
 安藤のお父さんはなるほどといった表情を浮かべ、ネクタイをギュッと締めた。
「すみません。今日だけ、お言葉に甘えさせていただきます」
「もちろんですよ。ああ、今日は少しでも恩返しが出来て嬉しいなあ」
 キリギリスが外の方に向き直ると、安藤のお父さんはキリギリスにまたがった。
「ヨシ君、またいつでも来るんだよ」 
 安藤のお父さんを乗せた巨大なキリギリスは、星たちが瞬く夏の夜空に飛び立ってあっという間にみえなくなった。
 それからだいぶ経ってからだったなあ。キリギリスが歌った歌がアメイジング・グレイスだと分かったのは……。

 そこまで話し終えると、ずっと黙って聞いていた博文はたまらず口を開いた。
「おいおい、冗談だろ?そんなこと信じろって言うほうが無理があるよ」
「だから言ったじゃん。酒のつまみくらいで聞いといてって」
「でもあれか?こういうことか?安藤にはそのお父さんの働き蟻の遺伝子があるから大丈夫って言いたいのか?」
「まあ、そういうところかな」 
 ビールをおかわりしようと店の中を見回すと、ちょうど入口から安藤が入ってきたところだった。右手を挙げて安藤を誘導する。安藤は少し恰幅のよくなったおなかを揺らしながら、笑顔でこちらへ向かってきた。
「すまんすまん、遅くなって。さっきやっと仕事が片付いてさ。久しぶりだなぁ博文」
「そうだなあ。お前の親父さんの葬式以来だから一年ぐらいか。それにしても大変だったな。今一番大変な時期なんじゃないのか?」
「いやいや、全然大変じゃないよ。働いてはいるけどね」
 屈託のない笑顔で安藤が笑う。
「ただ俺は親父が作った足跡を辿るだけだからさ」
 よっこいしょとひとりごちながらあぐらをかく安藤の靴下とズボンの隙間から、ふっさふさに生えたすね毛が見える。
「安藤、何飲む?」
「んー、じゃ俺もビールで」
「わかった。すみません。ビール三つ!」

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