小説

『蟻』杉長愁(『蟻とキリギリス』)

「安藤も大変だったなぁ。俺は葬儀の時以来だから一年ぶりぐらいか。今はあいつも親父の会社軌道に乗せるために色々大変なんだろうな」
 博文はそう言い終わると、もう何杯目かのビールジョッキをぐいっとあおった。もうジャケットもタイも外して、シャツのボタンもひとつ、ふたつ、みっつ開けている。
「まあでも安藤なら大丈夫だろ。親父さんに似てよく働くし」
「そうは言っても急に社長の椅子に座るわけだろ?二代目ってだけでもプレッシャーとか色々大変だろう。息子も今年から小学生だっけ?バタバタしてんだろうなぁ」 
 博文があぐらをかいてシャツをパタパタとやっているのをみていると、僕も急に暑くなってきた。ジャケットを脱いでタイを外し、シャツのボタンをひとつだけ開けた。それから水滴だらけになったジョッキを持ち上げて一口飲んだ。妙にぬるくなったビールが口から喉、喉から食道を通っていくのがよく感じられた。そろそろ胃にたどり着くころだなと視線を下げた時に、自分の足元が視界に入った。僕も博文にならってあぐらをかいているその、裾の上がったズボンと靴下の間の自分の足。そしてその足から生えている毛。僕はその毛を、ジョッキを握って少し濡れた右手でもてあそびながら、このことを博文に伝えるかどうか悩んでいた。僕は何本かの毛をまとめてひとつのダマにしてから視線を博文に戻した。
「実はさ、その安藤の親父さんのことなんだけど」
「ん?親父さんがどうした?」
「いや、俺が安藤はきっと大丈夫だって思う理由が親父さんにあるってこと」
「え?どういうこと?」
「きっと誰にも信じてもらえないと思って今の今まで自分の胸にだけ秘めてたことがあって」
「おうおう、なんだよ。聞こうじゃないのよ」
 その時店内に、どこかの外国の歌手が歌うアメイジング・グレイスが流れてきた。僕はまだ言うか言わないか迷っていたが、何の因果か、かかってきたこの曲に後押しされるかたちで話すことに決めた。
「わかった。じゃあ安藤が来るまでの酒のつまみくらいで聞いといて」
 僕は水滴だらけのビールジョッキをやり過ごして、水を一口飲んでから話し始めた。

 安藤のお父さんは近所でも評判の働き者だったんだ。それは仕事だけじゃなくて、土日には毎週家族みんなを連れて出かけてたり……。
 その日も今日みたいな夏の暑い日だったな。学校からの帰り道、安藤からうちでご飯食べてかないかって誘われたんだ。今日はお父さんが帰ってくるのが早いからって。

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