小説

『舌(ZETSU)』不動坊多喜(『王様の耳はロバの耳』)

 雨戸を開けると、梅雨の合間の太陽が差し込んだ。風が、重く湿った空気を動かす。
 実に、三十年ぶりの我が家だ。
「最近は、家の片付けを代行してくれるサービスがあるそうだけど、必要ないわね」
 妻が、襖を開けながら言う。
 そこは、父の書斎だった。壁面を取り囲む本棚と、きちんと整理された本。他には何もない。みごとなまでに、不要な物は処分されていた。
 ただ一つ、机の上に、蒔絵の文箱があった。
妻が蓋を開け、中身を指でつまむ。
「何、これ」
 それは、小さな金属片だった。五百円玉より少し大きい円盤で、ドーナツのように真ん中に穴が空いている。どこかで見た記憶があるが思い出せない。
「お義父さん、寂しくなかったのかな。何十年もこんな所に一人で」
 私は答えなかった。
 代わりに、隣室に横たわる父を見た。白い布を被り、もはや何も語らない。
 どうしても父を好きになれず、高校卒業と同時に家を出た。その後、顔を合わせたのはたった三回。結婚式と子どもが生まれたときだけだ。
 その時も、正直、連絡する気などさらさら無かった。しかし、妻が、「お父さんの祝福が欲しい」などと言うものだから、仕方なく招待状を送ったにすぎない。子どもが生まれたときもそうだ。妻に頼まれ、手紙を書いた。それで、父がお祝いを持ってきてくれた。それだけだ。
 結婚当初は父を気遣っていた妻も、家を離れたがらない父と、家に帰りたがらない私とに諦めを感じたらしく、すぐ何も言わなくなった。
 互いに連絡を取ることもなく、初めて父から電話があったのが一週間前。「入院する」の一言だけ。次の電話は、病院からの「お亡くなりになりました」だった。
 田舎とはいえ、葬儀屋が全て手配してくれる。弔問客も多くはない。父も私も一人っ子だったし、母の実家とは疎遠になっていたから、親戚は妻の両親と兄だけだ。近所に住む、父の友達と名乗るほんの数名だけが、線香を手向けてくれた。
 私は縁側に座り、ぼんやり庭を眺めていた。
 記憶にある庭とは、随分変わった。

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