小説

『カタリベマッチ』もりまりこ(『マッチ売りの少女』)【「20」にまつわる物語】

 昨日。記憶。過去。からっぽ。ゼロっぽい。
 もういちど、笑ってみる。へらへらと。遠くのヘリの音が耳にしみこんでゆくせつな、笑う。エアコンのせいで空気が乾燥している。咳払いした後笑う。
「俺たちに明日はない」っていうのとわたしには昨日がない、昨日の昨日のもっと昨日だってない、それすらない。っていうのはどっちがましなんだろう。
 夢の輪郭をたぐる。いちどにたくさんの人やものや場所をなくしたような、そんな輪郭がぼんやりと頭のなかに現れたり消えたりした。
 ふいにジョウって男の人のジッポが欲しいと思う。あの魔法みたいなジッポさえあれば、記憶のかけらをみつけることができるかもしれないのに。

 ジーンズを取り出してファスナーを閉めた。冬のジーンズの内側は冷たくてよそよそしい。わたしの身体が器だけで、なかのほうにあるものはもともと誰かの物であったような。記憶が飛ぶっていうのは、こんな感じになることを初めて知って声を天井に放とうと思った時ふいに、鼻のあたりになにか燃えカスのような匂いを感じた。蠟燭が燃えるときの甘い感じではなくて、どちらかというとシビアな硫黄の匂い。いずれにしても懐かしいにおいだった。

 その日何時間わたしは歩き続けただろう。街並みはうっすら覚えていた。頭というよりは足が覚えていたのだ。<火曜日銀座商店街>ここはあの年末に彼らが派手な喧嘩をしていたところだった。
 ジッポの炎が甦る。あの炎がつくときの男の人の溜め息みたいなふしぎなこもった音も同時に甦ってくる。パチンコ店の色褪せたポスター。異国の文字が記されたタイトルの横で男女が雪の中から生まれたみたいな視線でこっちを見ていた。
 隣のラーメン店<極>の筆文字の看板が、気持ちわるかった。
 タクシー乗り場は酔っぱらいがかろうじてまっすぐ立っていた、あの酔いの中でバランスをとりながら、また明日も会社にゆくことを思ったら、彼らの記憶の積み重ねが、どことなくわたしの追い付けない遥か遠い場所へたたずむ人のように思えて。すべての景色が遠い。
 カシャ。
 なんとなくわたしの背中のずっと後ろでシャッター音が聞こえる気がする。
 だるまさんがころんだの気分でふりむく。フェイントかけてふりむくふりして、ふりむかずふりむくこともわすれたふりして、ふりむくとやはり誰もいなかった。

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