小説

『恋捨て山』中杉誠志(『姥捨て山』)

 風もないのに木の枝がざわざわと揺れ、ハンカチノキの萼が一斉に散り始めた。それらは地面に落ちながら一ヶ所に集まると、みるみるうちに人の形になり、やがてひとりの女の人になった。白い衣を身にまとった、美しい女性。
 驚いて目をみはる私に、その女性が訊いてくる。
「なにを捨てようとしているの?」
 風鈴の音のように、凛と響く高い声は、鼓膜を通さず、直接脳の言語野に侵入してくるかのようだった。
「あ、いや……」
 私は写真を持ったほうの手を背中に隠し、言い訳にもならないようなことをいった。
「こ、このあたりの地層を、調べてみたくて……」
 すると女性は、やわらかく微笑んだ。
「ふふふ。隠さなくたっていいのよ。私は、この山の魔女。魔女にはなんでもお見通しよ。ズバリ、あなた、恋をしてるわね」
 相手が魔女ならしかたがない。私は観念して、真実を口にした。
「……はい。相手は、私と同じ学校の女の子です。すごくかわいい子で、頭も良くて、大人っぽくて……向こうも、私に好意を持ってくれているみたいなんですけど……」
「いいじゃない。付き合っちゃえ、付き合っちゃえ」
「ム、ムリです! そんなことしたら、周りの人たちに、なんていわれるか……」
 私は写真をつまんだ指にぎゅっと力を込めた。
「だから、この恋は捨てなきゃ、って思って……」
 また涙がにじみ出てくる。私は昔あまり泣かない子供だった。年をとるにつれて、だんだん人並みに泣くようになったが、しかし、恋の痛みのために泣いた経験は、この年までない。慣れない痛みが誘う涙は、止めようがなかった。
 そんな私に、美しい山の魔女が、やさしい声で問いかける。
「ねえ、あなた。もしも、あなたとその子以外の人類がすべて死に絶えて、世界にたったふたりきり残ったとしても、あなたはその子をあきらめるの?」
「……え?」
「世界にふたりきりなら、他人の目を気にすることはないわ。それでもあなたは、その子をあきらめるの?」
 私はハッとした。そして、頭のなかで、私と彼女以外のすべての人類が死滅した世界の終わりを夢想した。愛する相手を、ただ愛するということを、誰にも気兼ねする必要のない世界。私は、涙で濡れた瞳の奥に、強い光が灯るのを感じた
「なんだ、答えは出てるじゃないの。そう、その眼差しが答えよ。やるだけやってみなさいな。後悔なら、あとからいくらでもできるんだから」

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