小説

『シベリア樹譚』中杉誠志(『耳なし芳一』『月夜のでんしんばしら』)

 月影に照らされた針葉樹の森が、青白く光っていた。
 監視のソ連兵が、
「ダワイ!」
 と急かす。早くせよ、というような意味である。
 枯れ枝のようにやせ細った捕虜たちは、その声に従って疲れた足を収容所に向けた。ただ、三輪芳一郎だけは、ひとり切り株の上に腰を下ろしたまま動かなかった。
 しかし、誰も芳一郎を気にとめるものはない。死んだと思われたのだろう。このまま極寒の夜を外で過ごし、翌朝になれば、どのみち死体になる。シベリアの夜は零下三十度にもなる。そうなれば、ソ連兵は芳一郎から衣服を剥ぎ取った上で、死体を捕虜仲間に渡す。仲間は凍った土を掘り、埋葬してくれるだろう。芳一郎はそのときを待っていた。粗末な食べ物と不衛生な寝床を与えられ、一日中重労働を課せられる日々に疲れていた。戦争が終わり、日本に帰るまでは死ねないと気を吐く同胞たちとは違い、芳一郎にはどうしても国に帰らなければならない理由はなかった。家族はすでに死んでいた。
 やがて、兵士と捕虜たちが去ってしまうと、芳一郎はひとりになった。切り株の上で石像のように固まったまま、眺めるともなしに森を眺めていると、ふと、森の中でなにかが動いた。否、森全体が動いているのだった。
 芳一郎が月夜の薄闇に目を凝らすと、針葉樹たちが行列を作って行進をしているのが見えた。
 その異様な光景は、精神に重い蓋をしていた芳一郎に、恐怖の感情を思い出させた。
 はたして、これは幻であろうか。食うものも食わず、極寒の地の開拓事業に従事させられた五臓の疲れが、起きながらに夢を見せているのであろうか。はたまた、現実か。いや現実であるはずはない。では、これは、なんだ。
 おののき、すくみ、芳一郎の尻は、切り株の上に張り付いたように離れなくなった。
 そのうち、雪の大地の上を行進する木々の一本が、芳一郎に目を――太い幹にふたつ空いた、目とおぼしき空洞を――向けてきた。芳一郎は、背骨が鉄骨と化してしまったかのように、微動だにできない。たちまち、その一本が、口を――口とおぼしき空洞を――大きく開けて叫んだ。
「全隊、止まれ! 左向け左! 前へ、進め!」
 その声が高らかに響くや、すべての木々が号令通りに動き、一斉に芳一郎に向かって足を――根を――進めた。ざわざわと木々の枝の揺れる音が、大波のように押し寄せてくる。芳一郎は、やがて自分が踏み潰される近い未来を予想し、震えながら目を閉じた。
 しかし、肉を潰され、骨の砕かれる感触が、彼に訪れることはなかった。
「全隊、止まれ!」
 再び号令が発せられると、辺りはしんと静まり返った。耳が痛むほどの静寂に、おそるおそる芳一郎はまぶたを開く。木々は、その枝の先の鋭い針状の葉が、彼の鼻先をかすめる距離にまで迫っていた。しかも周りを囲まれている。逃げ場は、ない。どころか、逃げるという選択すら、彼の頭には浮かばなかった。

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