小説

『風の旅人』せん(『北風と太陽』)

 こんな所にこんな店あったっけ?
 繁華街の一本奥―ネオンの灯りも人通りも少ないその細い道に、ぼんやりと黄色く輝く『SNACK 北風と太陽』と書かれた看板。その前で男は突っ立っていた。右隣の小さな書店はシャッターが閉まり、男が会社帰りにたまに立ち寄る左隣の蕎麦屋は、この時間は暖簾もなく店内も真っ暗だ。その二軒のまるで隙間にひっそりと佇むような店。毎日とは言わないにしても、比較的よく通る道だが今まで気づかなかった。普段なら、初めての店に一人で入るような冒険はしないのだが、今日はどこか捨て鉢な気持ちだったし、酔った勢いも手伝って男はこじんまりとした古びた木製のドアに手をかけた。
 カランコロン。ドアに取り付けられたベルが鳴ると同時に、カウンターの女が「いらっしゃいませ」とこちらに顔を向ける。男がどこに座ろうかと迷っていると、カウンターへどうぞ、と言われた。奥から二番目の席にかける。
「いらっしゃい、初めてですね?」細身で色白の、黒髪の美しい女性がカウンターの中からおしぼりを渡しながら話しかけてきた。一重の切れ長の目が涼やかだが、どこか人を寄せつけない雰囲気もあった。
「あ、はい。よく、ここ通るんですけど、気づかなくって」おしぼりはよく冷えていた。蒸し暑い夜に気持ちいい。
 女が、何にします?と訊いてきたので、無難にビールを頼み、あらためて店内を見渡す。照明も明るすぎず、落ち着いた内装の、カウンターに六席、テーブル席が三つというこじんまりとした店だった。奥のテーブルには二、三人の男たちのグループがいる。私服の学生っぽかった。ついこの前までは自分も同じだったのに、男は遠い昔の光景を見るように小さな溜め息をついた。
「はい、どうぞ」女がビールのグラスを渡す。
「あ、どうも」グラスを受け取る時に触れた女の指は思いのほか冷たかった。ゴクリと飲む。冷えていて旨い。飲みなおしにはちょうどいい。
「新入社員ってとこかな?」女が言った。
「え、わかります?」
「靴も真新しいし、まだスーツが身体に馴染んでないから」
「え、そうか…。サイズ合わせたつもりなんだけどな」
「そういうんじゃなくて。長年お勤めしていると、知識や経験、挫折に成功、そんなものが身に付けるものに染み込んで、スーツや靴がまるで皮膚のようにその人の身体にぴったりとフィットするの。まるで身を守る鎧のようにね。まだ貴方は、ただ着せられてるっていうかんじだから。それと…」女は奥のテーブルに目をやった。
「あ…」溜め息を見られていたのか。男はもう一度深く息を吐いて、
「実際入社すると、思い描いてたのとは違ってて。仕事ができないのは実力不足だから、それはしょうがないんですけど。もっと、こう、助け合いっていうか、みんなで仕事するっていうのがないのかなって。今日もちょっとしたミスしちゃったんだけど、リーダーが全然庇ってくれなくて。しかも、仕事を手伝ってくれるなんてこともなく先に帰っちゃうし。それで同じく残業した同期と愚痴りながら飲んできたんですけど」

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