小説

『卑怯者メロス』中杉誠志(『走れメロス』)

 嗚呼、神よ、なぜ。
 なぜ、罪のない妹夫婦を見捨てたもうたのか。
 メロスは、激怒した。憤懣やる方なく、悪徳者は、神への憎悪に心を燃やした。石ころを蹴飛ばし、草を引っこ抜き、無人の小屋を殴って破壊した。暴れ疲れると、満天の星空の下に倒れ込み、天に向かって唾を吐いた。唾はメロスの顔に落ちた。それを拭うこともなく、泣きながら、メロスは眠った。
 そうして、夢を見た。亡霊の夢であった。メロスが若い姿で村に帰ると、そこには平穏に暮らす妹夫婦がいる。だが、メロスがあいさつをしても返事をしない。
「なぜ応えぬ」
 強く叱っても同じであった。どうやら聞こえておらぬらしい。
 ふと、メロスは鑿で石を打つ音を聞いた。振り向けば、そこにいるのは親友セリヌンティウスであった。巨大な石を成型して、何かをこしらえている。
「セリヌンティウス。何を作っている」
「墓だ」
 と石工は応えた。
「誰の墓だ」
 メロスが重ねて訊いたが、友は応えなかった。ただ、その熟練した鑿さばきで、「卑怯者メロス」と石に彫り込んだ。
「何のいたずらだ」
 メロスが半笑いでセリヌンティウスをたしなめたとき、両肩を強い力で掴まれた。見れば、妹夫婦が左右からメロスを拘束していた。
「卑怯者メロス」と妹は言った。
「卑怯者メロス」とその夫が言った。
「卑怯者メロス」とセリヌンティウスが言った。
「違う、私は卑怯者ではない。私は懸命に走った。走ったのだ、妹よ、義弟よ、親友よ。しかし力が及ばなかった。セリヌンティウス、私は君を裏切ったのではない。本当に、無理だったのだ。体がぴくりとも動かなかったのだ。体さえ動いたなら、シラクスの町まで這ってでも行った。だが、這うことすらもままならなかったのだ」
 メロスは必死に弁解した。しかし、それは嘘だと断じる者があった。
「嘘だ。おまえの体はまだ動いた。這う力どころか、歩く力も、走る力も残っていた。ただ、心が萎えたのだ。この世界でただひとつの悪徳は、人を信じぬことなどではない。自分を信じぬことである。おまえはそれをしたのだ、メロス。だから卑怯者となった。おまえは正しく裏切り者だ。友を裏切ったのではない。妹夫婦を裏切ったのではない。おまえは、ただ、自分を裏切ったのだ。自分の正義を裏切ったのだ、卑怯者メロス」
 その声は、墓石の下から聞こえた。メロス自身の声であった。

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